武士の切腹を描いた月岡芳年の作(右)/wikipediaより引用

江戸時代

なぜ武士は切腹するのか? ハラキリが日本人の精神性に与えた影響を考察する

昔見た外国のB級映画で、ヤクザの屋敷に切腹ルームがありました。

親分は、手下が失敗するとそこで即座に腹を切らせてしまうのです。

何もそんなくだらない理由で切腹しなくても……と苦笑したものですが、外国人には「日本人はしょっちゅう腹を切らせている」イメージがあるのかとも思いました。

ハッキリ言ってこれは不快。

私たちの祖先がつまらない理由で切腹していたなんて思いたくもないし、外国人から指摘されるのも気まずいし、それがB級映画のけばけばしい世界観の中でとなると、奇妙な居心地の悪さを覚えたものです。

しかし一方で「日本人はそんなにつまらない理由で腹を切っていたわけではない!」と自信を持って言い切れないかも……という複雑な感情も湧いてきます。

なぜ武士は切腹をするのか?

時代小説や歴史ドラマで見慣れていると感覚が麻痺してしまいますが、改めて考えると「なんでこんなことで切腹を?」と疑問に感じるかもしれない。

本日はこの不可思議な風習を振り返ってみましょう。

 


そもそもどうして腹を切るの?

言われてみればここから考えたくなるのが、この疑問です。

自殺ならいろいろな方法がある。

なのになぜ、切腹なんだ?

後始末も苦痛も実に凄まじいものではありませんか。

これはハラキリを知った外国人が大抵抱く疑問だそうです。確かに「ホワイ! ジャパニーズピーポー!」案件ですね。

もとを辿れば切腹が武士定番の自害手段となったのは鎌倉時代(起源そのものは平安時代という説も)。

「鎌倉腹切りやぐら」なんていうものもあります。

勇敢さを名誉とする武士にとっては、むしろ苦痛が大きい死に方であるからこそ評価となり、さらに「腹の内=誠意」を示す、ということで切腹という形式が定着したのではないか、というわけです。

時代が降ると、さらにエクストリーム化なんて書くとなんですが過激化していきます。

①十文字に切る

②はらわたをつかみだして投げる

③叩きつける

かような過激な行動が見られるようになりました。

難易度を競って加点をつける、まるで体操競技のようで……。

※以下は切腹の関連記事となります

こうした切腹という風習をヨーロッパ人は知識としては知ってはおりました。

もちろん実演を見ることはありませんでしたが、幕末になり来日するようになると状況は一変します。

慶応4年(1868年)、フランス水兵を殺傷した罪で土佐藩士が切腹を申し渡されました。

このときフランス側も死刑執行を見に来ていたのですが、恨みをこめて腹を切り、はらわたをつかみ出す凄惨さに驚きました。

20名が切腹予定だったところ、フランス側の犠牲者数と同じ11名が腹を切ったところで退出し、処刑を中止させたそうです。

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こうした切腹を目にしたヨーロッパ人は、自らが体験した恐怖と驚異を広げていったのでしょう。

それでは誤解するのも当然……と言いたいところではありますが、切腹について調べていくと日本人の私でも「理不尽だな」と思えることもあるわけです。

 


江戸時代を経て意味合いが激変

幕末、会津戦争地獄絵図を見ていると、こう考えてしまうことはないでしょうか。

「なぜ松平容保はさっさと切腹して、藩士の命を救わないのか?」

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戦国時代ですと、城主一人が切腹して味方の助命を嘆願するパターンがあります。

豊臣秀吉の水攻めに遭った清水宗治等がそうですね。

清水宗治
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ところが江戸期になると、殿が腹を切って皆を救うパターンは完全になくなり、幕末では誰もそうしなくなります。

徳川慶喜の家臣たちは何とかして慶喜の命を救おうとしました。

長州征討では藩主の毛利敬親にかわり、三人の家老が切腹しました。

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幕末になると、戦国時代には美談であった「主君が腹を切る」という行為は武士にとって最大の屈辱であり、家臣たちは何としても回避せねばならないことだったわけです。

徳川の治世二百六十年で、武士の忠義は完成し、自らを犠牲にしても絶対に主君を守ることが第一となっていました。

このように、切腹の意味は江戸時代にすっかり変わってしまう。

戦国時代は、主君に命じられたからと言われて家臣が素直に腹を切るものでもなく、出奔したり、最悪、謀叛を起こしたりしたので、主君は心の底から家臣を成敗したい時は謀殺したり、自ら斬ったりしました。

ところが江戸時代になると、切腹の命令に反抗する者はいなくなります。

上の者が下の者に命じる、下の者が上の者に詫びるために腹を切るといったことが動機となったのです。

それでは江戸時代、どんな動機で切腹したか?

例を挙げてみましょう。

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