徳川宗春を演じた役者を描いた『夢の跡』の一頁/wikipediaより引用

江戸時代

徳川宗春がやりたい放題で空前の好景気「名古屋の繁華に京(興)がさめた」

投稿日:

元禄九年(1696年)10月26日、御三家の一つ・尾張家62万石に徳川宗春が誕生しました。

後の尾張徳川・七代目藩主です。

しかし、父の三代藩主・徳川綱誠(つななり・つなのぶ)には39人の子がおり、その三十番目で二十男の宗春は、常識的に考えて同家を継げる立場にはありませんでした。

それがなぜ?
早速、宗春の破天荒な生涯(政治)を見ていきましょう。

ちなみに、子作りの凄まじい父ちゃん、何者?かと思えば、柳生新陰流の七世(柳生新陰流の”流派”はその前後に柳生家と徳川家でいったりきたり)だったりするので侮れません。

その血を多く引いたのか。
息子の宗春も、色んな意味で強い人でした。

 

20番目の息子・徳川宗春が殿様へと上り詰める

尾張家は初代・徳川義直が、御三家の中で最年長だったことから、「御三家筆頭」としての立場や意識を持っていました。

が、結局一人も将軍を出すことなく明治時代になっています。

『御三家である意味あったのか?』
と思われる方もおられるかもしれませんが、そうなっても仕方のないお家事情があったのです。

その理由の一つがタイミングの悪さです。
江戸幕府で、将軍の後継者選びに困るようになったのは五代・徳川綱吉時代あたりからで、同時期に尾張家では藩主の急死が相次いでいたのです。

本家に人を送るどころではありません。
しかも病死や事故死だけではなく「暗殺くさくね?」という死に方をした人もいて……よくある兄弟間での争いではなく、母親が関わってたっぽいとか、完全に経緯が不明とかいう人がザラにいるのがもうヤバいです。

 

どんだけツイてんねん

宗春は、そうしたキナ臭い尾張家の中で、珍しく天寿を全うできた人物です。
兄で四代藩主の徳川吉通(よしみち)から可愛がられており、お兄さんのほうが一緒に夕食を取りたがるほどだったとか。大名家には珍しい心温まる話ですね。

上記の通り二十男という生まれ順だったのですが、夭折した兄弟も多かったため、宗春は割と普通に”尾張家の若様”として育ちます。

途中で何回か養子の縁談が出たり。
他の藩(陸奥国梁川藩3万石)を継いだり。

名門一族生まれとしての道を歩みながらも、四代~六代目の尾張藩主が皆若くして亡くなってしまったため、享保16年(1731年)、実家に戻ってくることになりました。

ちなみにこの間、疱瘡にかかったりもしています。
しかし見事に回復して何事もなかったように仕事をしていました。

どんだけツイてんねんと言いたくなりますが、彼の強運はまだまだというか一生というか、現代まで続きます。

 

ドケチ吉宗の政策と真逆の方針でガンガンやれ!

さて、尾張家を継いだ宗春は、早速内政に取り掛かりました。

それも、当時の情勢からは考えられないような方向へ。

時の将軍は八代・徳川吉宗――。
”中興の祖””米将軍””口癖は質素倹約”の平たく言えばドケチです。

享保の改革をわかりやすく!目安箱以外にもあった吉宗主導の政策とは?

徳 ...

続きを見る

宗春は尾張藩主になる前、吉宗にいろいろ任されているので、恩もあり、その性格や政策も理解していたことでしょう。

しかし、自身が尾張藩主に就いてからは真逆の方向にブッちぎっていきます。
吉宗のポリシーにことごとく反するようなことばかり言い出したのです。

例えば、幕府では「今はお金がないんだから、祭りや芝居などの娯楽は控えること!」としていたのに対し、宗春以下の尾張藩では「やれやれもっとやれ!俺も派手なの好きだし、皆楽しくないとやる気なくなるだろ!」といった感じでした。

吉宗以下幕閣がこめかみに青筋を浮かべている様が目に見えるようで笑え……苦労が偲ばれます。
初代・義直と家光も対立してましたが、尾張家には将軍と険悪にならなきゃいけないとかいう伝統でもあるんですかね。

 

「今度の殿様は派手で面白い方だ」

とはいえ宗春はただの馬鹿殿ではなく、儀式や寺社への参拝のときにはきちんとした正装をしていました。
その辺はさすが由緒正しいお家の人ですね。

代わりに(?)自領内では歌舞伎や能の役者姿(舞台衣装)で出かけたり、どこから見つけてきたのか白い牛に乗ってみせたりとやりたい放題だったとか。

民衆からも「今度の殿様は派手で面白い方だ」ということで人気があったそうです。

領内に芝居小屋や遊郭など、娯楽施設を作る許可を出したのも宗春でしたので、そっちの世界や商人の間でも「ありがたいお方」として受け入れられていきます。
最盛期には千人を超える遊女で大賑わいだったとか。

実は宗春自身も、江戸にいた頃は吉原へよく通い、評判の遊女を身請けするほどだったのです。

結果、尾張藩は「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われるほど経済を回復させました。

ただし、藩財政は相変わらず赤字で、回復とはなっておりません。

 

実は、きちんとした理屈もあった

それにしても……宗春はなぜこれほどの行動に出れたのか?
実は、ただの反発ではなくきちんとした信念がありました。

いくつか書き出されているのですが、一貫しているのは二つ。

「行き過ぎた倹約はかえって民を苦しめることになる」
→ケチケチしすぎないで、使いたいときはパーッと金を使え!

「規制を増やしても違反者を増やすのみ」
→だから取り締まる手間をかけるより、楽しく金を使うようにすればいいじゃん?

シンプルで一理ありますし、現代にも通じる考え方ではないでしょうか。
余裕のある人が積極的に使ってくれないと、お金は天下を回っていきませんからね。

この方針は自領内にとどまらず、参勤交代で江戸に行った際には
「前の屋敷を建て直したついでに、ウチのお宝を江戸のみんなに見てもらおう!」
ということで藩邸を開放するという前代未聞の行動に出ています。

 

幕府と朝廷の板挟みに遭い……

現代ならそう珍しい話ではありませんが、江戸では倹約令の真っ最中。
当然、吉宗からお叱りの使者が来たといわれています。そりゃそうだ。

ただし宗春は宗春できちんとした考えを持っていたので、このお叱りにも真っ向から反論しました。

「国元と江戸で行動を変えるなんてできないし、民衆には迷惑かけてないですよ(っていうかウチのほうが江戸より賑わってるし)」

「藩邸に市民を入れたのとお宝を見せたのが悪いって言われても、やっちゃダメなんて言われてませんが?」

「私も無駄遣いなんてしてないですよ。ただ、吉宗様は倹約のやり方をご存じないので、私の行動がおかしく見えるだけなんじゃないですかね^^」

超訳するとこんな感じです。
返答を江戸城へ持って帰らないといけなかった使者が哀れに思えてくるほどの回答ですね。サムライはつらいよ。

そんなわけで本当にやりたい放題だった宗春ですが、後半生はまた別の理由で苦しい立場に追い込まれていきました。
幕府と朝廷の狭間に立たされ、板挟み状態になってしまったのです。

宗春自身の責任ではなく、尾張藩が数々の公家と縁戚関係にあったゆえですね。
朝廷は幕府に対抗するため「宗春おk」、幕府はそれが気に入らないので「宗春ザケんな(#^ω^)」という感じでした。

全くもって嬉しくない三角関係の出来上がりです。

 

下された隠居&蟄居命令

そして幕閣の一人・松平乗邑のりさとの画策によって、宗春は隠居及び謹慎することになってしまいます。

これがかなり辛い。
両親の墓参りさえ許されない、徹底した外出禁止が一生続くのです。

人によっては精神をおかしくしてしまう状況ですよね。

しかし、きちんとしたお屋敷は貰えましたし、外に出る以外は何をしても自由ということで、宗春は、絵や焼き物を楽しむなど割と好きにやっていたようです。
転んでもタダでは起きないというかなんというか。

頭のよくて性格の明るい方だったのでしょう。
政策では対立したものの、吉宗はやはり宗春のことを気に入っていたようで、謹慎後も「何か足りないものはあるか」「外に出られなくて気が沈んでいるのではないか」などなど、気配りをしていたそうです。

また、尾張からも宗春の恩赦を願う届出も何回かされており、地元での根強い信頼がうかがえます。

結局それは叶いませんでしたが、今ではこうした政策などが再び知られるようになり、名古屋では「徳川宗春を大河ドラマに!」という声も上がっているとか。
今のところ江戸中期のドラマは民放のほうが得意な気がしますので、ここはいっちょNHKの底力を見せてくれませんかねえ。

最初から合戦シーンがないのは明白なのでガッカリすることも少なそうですし。

長月 七紀・記

【参考】
『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末 (青春新書インテリジェンス) 新書』(→amazon
徳川宗春/wikipedia

 



-江戸時代
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.