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【徳川宗春】
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幕府と朝廷の板挟みに遭い……
現代ならそう珍しい話ではありませんが、江戸では倹約令の真っ最中。
当然、吉宗からお叱りの使者が来たといわれています。そりゃそうだ。
ただし宗春は宗春できちんとした考えを持っていたので、このお叱りにも真っ向から反論しました。
「国元と江戸で行動を変えるなんてできないし、民衆には迷惑かけてないですよ(っていうかウチのほうが江戸より賑わってるし)」
「藩邸に市民を入れたことやお宝を見せたのが悪いって言われても、やっちゃダメなんて言われてませんが?」
「私も無駄遣いなんてしてないですよ。ただ、吉宗様は倹約のやり方をご存じないので、私の行動がおかしく見えるだけなんじゃないですかね^^」
超訳するとこんな感じです。
返答を江戸城へ持って帰らないといけなかった使者が哀れに思えてくるほどの回答ですね。サムライはつらいよ。
そんなわけで本当にやりたい放題だった宗春ですが、後半生はまた別の理由で苦しい立場に追い込まれていきました。
幕府と朝廷の狭間に立たされ、板挟み状態になってしまったのです。
宗春自身の責任ではなく、尾張藩が数々の公家と縁戚関係にあったゆえですね。
朝廷は幕府に対抗するため「宗春おk」、幕府はそれが気に入らないので「宗春ザケんな(#^ω^)」という感じでした。
全くもって嬉しくない三角関係の出来上がりです。
下された隠居&蟄居命令
そして幕閣の一人・松平乗邑(のりさと)の画策によって、徳川宗春は隠居及び謹慎することになってしまいます。
これがかなり辛い。
両親の墓参りさえ許されない、徹底した外出禁止が一生続くのです。
人によっては精神をおかしくしてしまう状況ですよね。
しかし、きちんとしたお屋敷は貰えましたし、外に出る以外は何をしても自由ということで、宗春は、絵や焼き物を楽しむなど割と好きにやっていたようです。
転んでもタダでは起きないというかなんというか。
頭のよくて性格の明るい方だったのでしょう。
政策では対立したものの、吉宗はやはり宗春のことを気に入っていたようで、謹慎後も「何か足りないものはあるか」「外に出られなくて気が沈んでいるのではないか」などなど、気配りをしていたそうです。
また、尾張からも宗春の恩赦を願う届出も何回かされており、地元での根強い信頼がうかがえます。
結局それは叶いませんでしたが、今ではこうした政策などが再び知られるようになり、名古屋では「徳川宗春を大河ドラマに!」という声も上がっているとか。
今のところ江戸中期のドラマは民放のほうが得意な気がしますので、ここはいっちょNHKの底力を見せてくれませんかね。
最初から合戦シーンがないのは明白なのでガッカリすることも少なそうですし。
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長月 七紀・記
【参考】
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末 (青春新書インテリジェンス) 新書』(→amazon)
徳川宗春/wikipedia