そんな言葉通り、江戸の町が火事の多いところだったことは有名ですよね。
元々は、火事の際に活躍する火消し達の活躍が華々しいという意味だったようですが、そんなこと言ってられないような火災も幾度となく発生。
今回は、その中でも最大の火災に注目です。
明暦三年(1657年)1月18日、後に【明暦の大火(振袖火事)】と呼ばれる大火災が始まりました。
日本史上最大、世界史的に見ても有数の焼失面積と死者数を出したこの火事は、同時にとても謎の多い事件でもあります。
その様子を振り返ってみましょう。
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振袖火事 別名・明暦の大火は死者3万人!?
明暦の大火は、18日から19日にかけて、江戸のあちこちで火の手が上がりました。
この時点で「テロ的な放火?」と思われるかもしれませんが、原因は不明。
その推察は後述するとしまして、話を進めますと、まず18日のお昼過ぎ、本郷にある本妙寺というお寺から神田・京橋・隅田川あたりへ燃え広がりました。
該当エリアだけで死者三万人を超えていたといわれています。
本妙寺は以下の地図で①のところ。そこから南西へ向かって燃え広がっていたんですね。
そして翌日は午前中に別のお寺(小石川②)から出火し、飯田橋から九段及び江戸城へ火の手が広がり、さらに夕方になって③の麹町からまたまた出火。
火の手はどんどん広がり、新橋方面の海岸エリアまで焼けるという恐ろしい火災となりました。
そのため「実は幕府が都市計画をやり直すためにわざと放火したんでは?」という荒唐無稽な説が出ているくらい。
もしも、万が一、幕府の手によるものなら、江戸城が燃えた時点で一時中止ではないでしょうか。
燃やした後で再建するには、瓦礫の撤去から始まって莫大なお金と資材・人手が必要になりますから、いくら都市計画をやり直すためとはいえリスクが高すぎます。
まだ財政難に陥る前とはいえ、保科正之や松平信綱など有能な人材が揃っていた当時の幕府が、わざわざそんな金のかかりまくる方法を選ぶのはいくらなんでも無理がありますね。
※以下は松平信綱の事績まとめ記事となります
5才で将来を決めた天才・松平信綱「知恵伊豆」に欠点はないのんか
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いずれにせよ上図のように凄まじい範囲で江戸の町が焼け、最終的な犠牲者は最大で十万人との観測があります。
『国史大辞典』では数万との見解が示されていますね。
これだけの規模の火災は、大火の多い江戸期を通じても最大でした。
関東大震災や東京大空襲を除いて江戸=東京で最も大きな被害ですので、火災としてはおそらく日本史上最大となるでしょう。
三度の大火が起きた【元禄の大火】や、【江戸の三大大火】に数えられる【明和の大火】や【文化の大火】でも、そこまでの被害はありません(三大大火のうち一つが明暦の大火)でした。
三度の大火事が江戸を襲った元禄の大火~すべて綱吉時代に起きていた
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祈祷で使った火が延焼したか
明暦の大火は別名「振袖火事」とも呼ばれており、本妙寺での出火原因の一つになっています。
なぜ「振袖」なんて名前が付けられたのか?
端折って説明しますと。
ある「紫ちりめんの振袖」を着た若い娘が立て続けに3人も亡くなってしまった。
「厄を祓おう」ということで僧侶がお焚き上げ(遺品を燃やして供養すること)した。
すると火のついた振袖が舞い上がりそこから大火事になった。
というものです。
オカルトめいた逸話ではありますが、このお焚き上げをしようとした場所が出火元の一つ・本妙寺だったというので信憑性があり、今に伝えられています。
現実的に考えると、元は「本妙寺の出火原因がお焚き上げだった」という話にいつの間にか尾ひれがついたのではないでしょうか。
そして翌日の火災は、本妙寺の火で刺激された放火犯が動いたのではと思わされます。
というのも、googlemap(次ページ)でその地点を確認してみると、両地点はなかなか近いのです。
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