元禄十六年(1703年)2月4日、赤穂浪士46人が切腹しました。
あれ? 赤穂浪士って47人じゃないの? もう1人は?
と思われるかもしれません。
実は事件当日に寺坂信行という浪士が行方をくらましており、その詳細は以下の記事を御覧ください。
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また、赤穂事件というと忠臣蔵のイメージから「年末の話じゃないの?」という印象もあるかもしれません。
実は、世間が彼らに味方していたこともあて、なかなか処分が決まらず、一ヶ月以上経ったこの日に腹を召すことになったのです。
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とはいえこの人数ですから、一つところで順番にやっていたら日が暮れてしまいます。
そもそも彼らは捕まった時点で四つの大名家に預けられていたので、そこでそのまま最期を迎えることになりました。
それまでの待遇ですが、どこの大名家かで切腹時の扱いもかなり違ったようです。
最も優れていたとされるのは、四家中一番の大身であった細川家でした。
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室町時代から続く名家はさすがに違う
細川家といえば、大河ドラマ『麒麟がくる』で世間的にも注目された細川藤孝(細川幽斎)や、その息子でキレすぎる風流人・細川忠興の家で知られますね。
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忠興には、なかなかエキセントリックな一面がありましたが、跡を継いだ細川忠利以降は名門に相応しい振る舞いをしており、この頃の当主は細川綱利(つなとし)という人で、忠利の孫でした。
細川幽斎から数えれば五代目にあたります。
元禄十六年(1703年)ともなれば、戦国の気風はかなり薄れ、あちこちの大名家で財布の紐やウエスト周りが弛んでくる頃合です。
が、さすがに室町時代からの名家は違いました。
綱利は浪士たちの預かり先、しかもリーダーだった大石内蔵助良雄を含めた17人という最多人数を任せられることが決まると、到着が真夜中だったにもかかわらず、ずっと起きて待っていたといいます。
さらに罪人に対するとは思えない食事(二汁五菜)や菓子に酒、部屋、風呂に嗜好品の世話までしてやり、大石については直々に会って話を聞くなど、彼らのやったことを肯定するような行動をしました。
一応幕府に許可を取ってはいたものの、ヘタをすれば細川家の命運に関わりそうなものです。
しかも助命嘆願だけでなく、わざわざ山へ神頼みに行くわ、「命をお助けくださるなら、我が家で召抱えたい」とまで申し出るわ、願掛けのため精進料理に切り替えるわ、相当な入れ込みようでした。
細川綱利が規格外だったのかもしれない
とはいえ彼も武士ですから、幕府から「切腹させよ」と命じられれば従わざるを得ません。
最後の情けか悪あがきか。「端役の者では彼らに礼を失する」として、介錯人(切腹の際止めを刺す役)に重臣や自分の小姓を当てるなど、心配りを見せました。
現代人からすると「控訴とかできないんかい?」と思われるかもしれませんが、当時は再審とかないので仕方ありません。
綱利も自分の家を守らなくてはいけませんから、最大限の配慮をすることで浪士達に礼を尽くしつつ、幕府への体裁も整えたのです。
さすがに50万石もの大大名である細川家を潰すわけにはいきませんからね。綱利もなかなかやりますなぁ。
こうなると赤穂浪士たちを預かっていた他の三家がショボく思えてしまうかもしれませんが、綱利が規格外すぎただけのことなので、彼らが悪いわけではありません。
むしろ細川家が代々幕府の役に立ってきた家だったからこそ、お目こぼしをしてもらえたのでしょう。
もし普段から幕府に反抗的だったり、さほど熱心にお勤めをしているようには見えない家だったら、これを機に何らかの処罰がくだされていたかもしれません。
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