松平正容

松平正容/wikipediaより引用

江戸時代

女難が次々と降りかかる 会津・松平正容の『側室継室トラブル物語』

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あのヒトをお返しするか幽閉したい……

榎本家からは兄の永矩が「妹を引き取りたい」とやってきました。

これに対し藩は「いや、他の家に嫁がせることになったから」と拒否。こうしておもんの方は正之の母の実家・神尾家に再嫁した……のですけれども、まだ騒動は終わりません。

おもんの方はまだ不満を燻らせていたらしく、夫どころか神尾家そのものに馴染もうとせず、庭の隅に勝手に祠を作って何かを祈願していたというのです。

短慮で強情なところも全く直っておらず、神尾家は困り果て「あのヒトをお返しするか、うちで幽閉したいんですが」と藩に申し出ました。

これにはお偉いさん方も困り果てます。

いったんは「もう殿と関係ないヒトだから好きにしていい」と言ったのですが、また榎本家が騒ぎ出すかもしれない……ということで、すぐに撤回。

その後も色々と揉めた上、榎本家と神尾家の間で話がまとまり、弟の時伊がおもんの方を引き取ることに決まります。最初からそうしとけばよかったんじゃ……というのは野暮ですかね。

おもんの方はそれから30年ほど生きたそうで、実家でおとなしくしていたと思われます。

 

四代藩主を産んだ「お伊知の方」は家臣の家に嫁ぐ……

結局、次の四代藩主は、おもんの方の息子でも、お祐の方の息子でもありません。

「お伊知の方」という別の側室の息子で、松平容貞(かたさだ)という人。

お伊知の方も江戸藩邸で仕えていましたが、正容の国元での側室に選ばれて会津に下り、容貞を産みました。

しかし、おもんの方の騒動からか、会津藩では「お伊知の方をそのまま側室扱いのままにしておくと、また面倒が起きる」と判断され、お伊知の方を家臣に下げ渡すことが決まります。

お伊知の方はさほど身分は高くなかったと思われますが、容姿端麗で三味線の名手という、武家の側室としては申し分ない人だったので、迷惑にも程があるというものです。

こうして、会津藩物頭(足軽のグループを統率する役目)の笹原家の嫡子・忠一がお伊知の方を拝領することになりました。

お伊知の方は新しい夫や家のため、自らまめまめしく働いて、良い妻となったそうです。

絵・小久ヒロ

美人で家事を自らやってくれて、楽器も得意な奥さんとか文句のつけようがないですね。本人はもとより、忠一もその両親も安心したことでしょう。

ところが、です。

話はここで終われません。

 

そこまでいうなら笹原家ごと改易してやんよ!

容貞の異母兄たちが皆若くして亡くなり、「次の藩主は容貞!」ということが確定すると、困ったことになりました。

このままでは「藩主の生母が家臣の妻」という構図になってしまうからです。

ただの側室であるとか、「生母の身分が低いため、本人には知らせず、父の正室の子供扱いにする」というケースならままありますけれども、この場合は極めて世間体が悪くなってしまいます。

そこで会津藩は下げ渡したときと同様に、強引な手段に出ました。

お伊知の方を城に呼んで、そのまま「お伊知の方は突然具合が悪くなったみたいだから、しばらく城で養生してもらうことになった」ということにして、お伊知の方を取り戻してしまったのです。

源氏物語の髭黒の大将と玉鬘みたいな話(※)ですね。この方法を考えついた人の中に、同エピソードのファンでもいたんでしょうか。

城では「そうはいっても、笹原家にも面子というものがある。ここは何かしら理由をつけてもらって、離縁状を出してもらえばいい」と考え、笹原家にその通り伝えます。

しかし、笹原家の返事は「主君から拝領した妻をむやみに離縁するのは不義にあたります。若君のためでしたら城にいさせるのは構いませんが、離縁だけは絶対にいたしません」というものでした。

普通なら忠義な部下を持って感涙するところですが、この場合は「面子」というものが争点なだけに、両者一歩も譲りません。

数ヶ月間平行線が続いた後、城方のほうがブチ切れました。

「殿の決定に逆らうとは不届き者め! そこまでいうなら笹原家ごと改易してやんよ!!」とまぁ、決まってしまったのです。

しかもただの改易ではなく「今後、笹原家は会津に住むな!」という制限付きでした。ひでえ……。

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