松平正容

松平正容/wikipediaより引用

江戸時代

女難が次々と降りかかる 会津・松平正容の『側室継室トラブル物語』

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会津へお国入りした時、正式に父の妻として扱う

お伊知の方は「美崎の方」という新しい名前を与えられ、城の老女(エライ女中)としてお給料も出されました。

ただし、容貞には生母ということは知らされず、お祝いの席にも出られなかったといいます。

そのため、容貞が江戸に住むようになっても同行できませんでした。

老女にしたなら、世話役の一人として扱えば、江戸藩邸で一緒に暮らすことくらいはできたと思うのですが……人の噂に上ることを恐れての処置でしょうか。

それでも笹原家のことは忘れず、舅の忠義が亡くなった後、姑の暮らし向きが立つよう藩に願い出ていたりします。

そしてその願いが叶えられた半年後に、お伊知の方も亡くなりました。忠義の五回忌にあたる日だったため、自ら命を絶ったのではないか……ともいわれています。

忠一のほうは幽閉の身のままで生涯を終えました。

きっかけはどうあれ、できた妻を持って幸せだったはずなのに……(`;ω;´)

父母の喪に服すことは、当時の社会常識として欠かしてはならないことです。

そのため、お伊知の方の死を容貞に知らせなければなりません。ずいぶん議論をした末に、お伊知の方のことが容貞に伝えられました。

容貞からしたら、突然本当のカーチャンの顔と名前を知らされたと思ったら「この前亡くなりました」と言われたわけです。ひどいってレベルじゃねー!

ずっと離れて暮らしていたのですから、顔をきちんと見たことがあったかどうかもあやしいですし……。

 

婦人女子の言、一切聞くべからず

もしかしたら、容貞は「生みの母は身分の低い人だ」ということを薄々悟っていたか、聞かされていたかもしれません。

彼は会津へお国入りした時、お伊知の方のお墓参りをし、正式に父の妻として扱うようにさせているのです。草葉の陰で、お伊知の方は喜んでいたでしょうね。

しかし、名君の代名詞といっても過言ではない正之の息子の代で、このようなトラブルが続いていた……というのは意外なことのように思えて、実は予期されていたことかもしれません。

というのも他ならぬ保科正之が、妻や側室との間でシャレにならないトラブルが起き、

婦人女子の言、一切聞くべからず

※女の言うことは一切聞くな

なんて家訓を残しているぐらいです。

トラブルとは?

その内容を一行で記すと

【側室の娘の嫁ぎ先が自分の娘よりも家格が上だったことを気に入らなかった継室が、側室の娘に毒を盛ったところ、誤って自分の娘が食して死んでしまった】

という、「えっ、なにそれ? 意味がわからない」という事態になっています。

お手数ですが、詳細は以下の記事をご覧ください。

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※玉鬘は光源氏の養女。結婚するか宮仕えするか迷っていた時期に、髭黒の大将が女房(女官)の手引で玉鬘の部屋へ強引に押し入り、事実婚をしてしまった。

玉鬘が落ち込んでいるのを見て、髭黒の大将は一日だけ宮廷への出仕を許すが、その帰り道で、玉鬘を強引に自分の家へ連れ帰ってしまう。

そのときの光源氏への言い訳が「玉鬘は突然具合が悪くなったので、私の屋敷で預かります」というもの。嘘乙。

夫が妻を家に引き取ること自体はおかしくないため、光源氏もゴネることができなかった。

【参考】
国史大辞典
松平正容/Wikipedia
栄光院_(松平正容継室)/Wikipedia
本妙院_(松平正容側室)/Wikipedia
智現院/Wikipedia

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