加納久通

幼少の頃から加納久通に支えられてきた徳川吉宗/wikipediaより引用

江戸時代

『大奥』で注目された吉宗の側近・加納久通~史実ではどんな人物?

『暴れん坊将軍』は、ご存知、八代将軍吉宗が暴れるという痛快時代劇。

そもそも、なぜ将軍が暴れなければならんの?

と、言いたいことは山ほどある設定ですが、劇中、その将軍の暴れっぷりに悩まされる側近たちがいます。

御側御用取次役(おそばごようとりつぎやく)です。

幼少期から吉宗を見てきた「爺」と呼ばれる存在であり、加納五郎左衛門忠久・有馬彦右衛門・田之倉孫兵衛または宍戸官兵衛がトリオになっています。

そのうち有馬と加納にはモデルがいまして、今回、注目したいのが加納。

『暴れん坊将軍』では有島一郎さんと伊東四朗さんが演じていた好々爺で、史実では吉宗の側近だった

加納久通(かのうひさみち)

です。

男女逆転版のドラマ『大奥』では貫地谷しほりさんが素晴らしい演技で魅せたこの人物、一体どのような経歴の持ち主だったのか?

寛延元年(1748年)8月17日が命日である、加納久通の生涯を振り返ってみましょう。

 


「爺」ではなく「片腕」

『暴れん坊将軍』の印象が強いせいか。

加納久通にはかなり年輩なイメージが付き纏い、男女逆転版『大奥』の貫地谷しほりさんでは若いようにも思えます。

史実では一体どうだったのか?

徳川吉宗:貞享元年(1684年)10月21日誕生

加納久通:延宝元年(1673年)

実は、一回りほどしか年齢差はないんですね。

どちらかというと兄貴分的な家臣であり、「爺」はあくまで作劇場のモチーフだということで、あの人物像は一旦忘れたほうが良さそうです。

1995年の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では小林稔侍さんが、傅役として側近として、その生涯を吉宗に捧げていましたが、男女逆転版『大奥』の方が史実に近い像となります。

 


紀州藩士から吉宗側近へ

徳川吉宗には錚々たるブレーンが揃っています。

中でも大岡忠相(ただすけ)は時代劇『大岡越前』のおかげで知名度が抜群。

実際の忠相も、吉宗の手足となり、江戸町奉行で活躍しました。

当時の政治をドラマで描くのであれば、こうした人物が目立つかもしれませんが、こと将軍の私生活となると、クローズアップする対象は異なります。

それが、紀州時代からの側近だった加納久通と有馬氏倫(ありまうじのり)のコンビです。

二人の性格は対照的とされ、有馬が激烈、加納は温厚。

そんな加納久通は延宝元年(1673年)、紀州藩士・加納政直の子として紀州和歌山城下で生まれました。

その11年後の貞享元年(1684年)、 2代紀州藩主・徳川光貞に四男の源六が誕生します。

生母は身分の低い側室・お紋であり、この時点で源六には三人の兄がいて、うち一人は夭折しますが跡目相続の目はほとんど無いものでした。

そのためか源六は、家老・加納政直の家に預けられ、政直の子である加納久通とは兄弟のように育ちます。

程なくして源六は元服して「頼方(よりかた)」となりました。

もしも何事もなければ、この主従はひっそりと紀州で人生を終えたでしょう。

しかし、ここで大転換が起こります。

宝永2年(1705年)、3代紀州藩主の徳川綱教(つなのり)が死去。

同年、その二弟である徳川頼職(よりもと)までもが落命してしまい、5代目、五十五万石の藩主の座が若い頼方にめぐってきたのです。

頼方はこれを機に、綱吉から一字を取った「吉宗」と改めました。

徳川吉宗
史実の徳川吉宗はクセの強い名君だった?ドラマ『大奥』冨永愛

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そして気の置けぬ間柄の加納久通と有馬氏倫を側に置き、彼ら主従は藩政改革へ乗り出します。

吉宗主従の出世劇、その始まりでした。

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