加納久通

幼少の頃から加納久通に支えられてきた徳川吉宗/wikipediaより引用

江戸時代

加納久通~NHKドラマ『大奥』で注目された吉宗の側近~史実ではどんな人物だった?

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「御用人」を廃止し「御用取次」へ

徳川将軍は、初代家康は男児に恵まれました。

しかし二代・徳川秀忠は決してそうとは言えず、三代・徳川家光に至っては、早くも後継者問題が案じられ始めます。

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そして享保元年(1716年)、七代・家継がわずか8歳で夭折してしまうと、紆余曲折をへて、八代将軍の座は御三家藩主である吉宗にめぐってきました。

吉宗は加納久通と有馬氏倫を引き連れ、幕政の中心へ。

長年の付き合いがあり吉宗の人柄を熟知し、紀州藩の藩政改革にも関わってきたこの二人は、【享保の改革】はじめ、さまざまな課題に挑む吉宗を支え続けます。

まず吉宗は、幕閣に乗り込むにあたり、政治体制の変革に着手しました。

というのも、五代将軍の綱吉以降、六代・家宣、七代・家継まで、幕政は御用人が権力を握っていたのです。

御用人とは将軍と老中を結ぶ役職であり、綱吉時代の牧野成貞や柳沢吉保は有名ですね。

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吉宗が将軍職についた時は、間部詮房新井白石という御用人がいました。

家宣と家継時代の【正徳の治】に貢献した、非常に優秀な人物たちです。

とはいえ長年勤めていると、どれだけ優秀な人物だって空気は澱む。間部も新井も勤勉で真面目ではありますが、どうしたって隙や綻びは生じてしまいます。

例えば間部詮房は、家継の生母である月光院と距離が近いと囁かれ、まだ若い未亡人の彼女と酒宴を楽しんでいるといったゴシップが流れました。

庭で開くその宴に幼い家継まで同席させたから風邪を引き、幼くして亡くなったのだとまで噂は広がります。

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吉宗はそんな反発を受け、この二人を罷免。

代わりに老中と譜代を尊重する政治を始めます。

そして自らの手足として、紀州藩由来の側近を用いることにしたのです。

加納久通と有馬氏倫の両者は「御用取次」に任命されました。

将軍と老中、奉行をとりつぐものであり、「御用人」とどう違うのか? と問われたら、実は大差などない、いわば秘書業務です。

吉宗は側近政治を廃止したようで、その実、続けたとも言えます。

 


温厚な加納久通と苛烈な有馬氏倫

将軍へ意見を通すには、取次を越えなければならない。

かくして「御用取次」の二人が首を縦に降らねば、将軍に取り次いでもらうことすらできない状態となりました。

結果、周囲は次第に二人の顔色をうかがうようにもなります。

そんな様子を当時の儒学者である室鳩巣(むろ きゅうそう)は、こう書き残しました。

両人の勢盛んにして君辺の柄をとられ候故、老中などいづれも彼に媚び申さるる事目覚ましく候

【意訳】二人の勢いはますます盛んで、将軍の側でコントロールしている。老中は誰でも彼らの顔色をうかがっているとありありとわかる

先程も申し上げましたように、加納と有馬の性格は対照的です。

有馬氏倫は清廉潔白ながらも苛烈で「人喰犬」とすら囁かれました。

一方で加納久通は温厚で謙虚であり、互いを補い合う関係のもと、吉宗を支えて【享保の改革】を推し進めたのです。

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二人とも順調に出世を遂げ、生涯、役についたまま、有馬氏倫は享保20年(1735年)に68歳で死去。

加納久通は寛延元年(1748年)、76歳でなくなると、今度はその3年後、吉宗が寛延4年(1751年)、66歳で死去しました。

君臣ともに天寿を全うしたと言えるでしょう。

 


吉宗は好色将軍なのか?

秘書役だった加納久通と有馬氏倫の二人。

吉宗と距離が近すぎるためか、彼ら自身の政治的な信条や特性はわかりにくいものです。

そのためフィクションでは、吉宗の側近として比較的自由なキャラクターづけをされます。

NHKで放映されるドラマ『大奥』となると、吉宗の性への接し方は避けて通れない話といえます。

同作品での徳川家光や徳川家綱は、恋に悩む姿が描かれる。

しかし、吉宗はそうでもありません。

肝が据わっていて男性関係は奔放で実用的。美男には手をつけず、偏った相手を寵愛しないようにします。

これには史実の裏付けもあります。

吉宗は、しばしば好色な将軍と見られたりしますが、これは彼特有の事情から誇張されたことは否めません。

例えば吉宗の御落胤伝説による【天一坊事件】があります。

「御落胤」とは、高貴な身分の人物が隠し子を儲けたことを指し、享保13年(1728年)夏、吉宗の御落胤を自称する天一坊が浪人を集めたのです。

天一坊は逮捕されて斬首。

この事件は、実際には関与していない大岡忠相が裁いたこととされ、講談や歌舞伎『天一坊大岡政談』として人気を集めました。

そうなると、世間はこう思います。

「火のねえところに煙は立たねぇ……きっと将軍は好色だったにちげぇねぇ!」

こうして誇張され、ゴシップとして定着していった。

確かに吉宗には、多数の側室がいました。

紀州藩主となる前の若い頃は、気楽な日々を送っています。

文武の鍛錬は欠かさぬものの、野山を駆け回る時間と余裕があり、そうした自由時間に美女とのロマンスがあってもおかしくない。

そんな発想から御落胤伝説が生じやすかったのですね。

これが生まれながらの将軍であれば、自由はなく、そんな噂が立ちようがありません。

ドラマの加納久通は、そんな吉宗をどう支えたか?

『暴れん坊将軍』では三人だった吉宗の側近ですが、NHKドラマ『大奥』では一人が担い、しかも吉宗の与り知らぬところで非情なまでの重責を背負っていました。

大望のために生きた主従――今でも二人の姿が、強烈に心の中に残っています。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
辻達也『徳川吉宗』(→amazon
『徳川吉宗のすべて』(→amazon
中江克己『徳川吉宗101の謎』(→amazon

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