参勤交代と大名行列

園部藩参勤交代行列図/wikipediaより引用

江戸時代

参勤交代と大名行列の素朴なギモン~期間は?妻子は?経済的負担は?

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現代人の感覚だと、そんな風に思ってしまいますが、この時代の【体面】に関する価値観は、我々の想像を絶するところがあります。

体面を保たせようとする相手を無下に扱えば、それがそのまま跳ね返ってくるし、相応におもてなしすれば互いにwin-win。

地元での小競り合い程度なら力尽くで押さえられるかもしれませんが、幕府や全国の大名の場合にはそうもいきません。

穏便にコトを進める上で必要だったのですね。

 

1615年の武家諸法度で法的整備

正式な法律としては、元和元年(1615年)の【武家諸法度】が起点です。

大坂夏の陣後に出され、参勤交代に関する文言が出現。

その後、いったん削除されたり、新たに書き直されたりして、前述の通り寛永12年(1635年)版の武家諸法度で明文化されました。

ここで「各地の大名は、毎年四月交代で一年間江戸に住むこと」が義務付けられています。

しかし、立場や職務上の理由で、毎年交代ではない大名もいました。

例えば、各地の外交窓口です。

・対馬の宗氏

・蝦夷地の松前氏

・長崎警備担当の黒田&鍋島両氏

対馬の宗氏は三年に一度で、蝦夷地の松前氏は六年に一度、黒田&鍋島両氏が長崎警備との関係で11月に参府・2月に就封など、場合によって加減されておりました。

また、「定府」と言って、そもそも参勤交代がない大名もいました。

例えば水戸徳川家は、将軍家のご意見番という名目があったので、水戸との行き来は基本的にしません。

幕府の老中・若年寄・奉行なども領地は持っていますが、定府とされていたため、国元に行くことは基本的にありませんでした。

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【大名行列】の規則も1615年から事細かに

参勤交代といえば、制度そのものよりも

【大名行列】

の方が印象深いかもしれません。

大名の前後に大勢の家臣が並んで歩き、ゾロゾロ、ゾロゾロ……。

元々は、戦のときに行軍を整えたのが始まりで、江戸時代には「大名が参勤交代するときの形式」になりました。

参勤交代/wikipediaより引用

一歩間違えば、単なる行列ではなくガチの行軍になってしまうものです。

藩主を護衛するための武器や兵は必要にしても、ある程度の制限は設けなければなりません。

そこで幕府は、元和元年(1615年)から、行列についての規則も事細かに定めました。

基本的には石高が多ければ多いほど格式が高く、大きな藩ほど大行列に――ざっとこんな感じで。

加賀の前田氏で2500人規模

薩摩の島津氏で1200人規模

もちろん全てが武士ではなく、また、本当にエライ人達は藩主以下数十名だけです。

藩によっては、体裁を保つため領内だけ周辺の住民を雇って水増ししたり、江戸に入る直前にも人を雇ったりしていたようです。

こうすると、道中の費用がいくらか抑えられますからね。

映画『超高速!参勤交代』(amazon)でも、そんなシーンがありました。

雇われる側からしても臨時収入になるので、悪い話でもなかったとか。

現代でいえば、ドラマのエキストラに一日だけ出演するとか、そんな感じでしょうか。

 

街道や橋などの交通整備も進んだ

大名行列は、大人数での行軍ゆえに街道が混雑したり、宿の手配に困ることもありました。

参勤交代の日程はあらかじめ決まっているわけではなく、

「この辺の時期に江戸へ来るように」

というざっくりしたものだったので、近所の大名とかち合ってしまうのです。

そのため時期が近くなると、近所の藩同士でひっそり連絡をとって、迷惑がかからないようにしていたとか。

ただし、天候不順などで、どうしてもぶつかってしまったり……。

そんなときは自分の領地を通行される大名でも、街道の整備などを行い、できるだけスムーズな通過に協力していました。

この辺は、戦国時代とかなり様変わりしていますね。

それまでは【街道=敵の進路】という考えが強かったので、道や橋の整備をしたがらない、あるいはそんな余裕がない大名が多数派でした。

参勤交代が常態化することによって、各大名の間に「協力」という意識が定着したのかもしれません。

交通整備については、武家諸法度にも「やれ」(超訳)と書かれているため、そうしないと幕府に睨まれる、というのもありました。

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