上田秋成『雨月物語』

上田秋成/wikipediaより引用

江戸時代

怪談話『雨月物語』著者の上田秋成~鹿島稲荷の予言を超えて長生き

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『雨月物語』上田秋成
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翌年にも作品を発表していますし、割と多作型の作家だったようです。

国学者や医師とも交流していますので、創作意欲が刺激されやすい環境だったのかもしれません。

あるいは、やる気を保つために幅広い知識を得ようとしたのでしょうか。

 

37歳で火事に遭い 39歳で医師開業

こうして二足のわらじを履いていた秋成。37歳のとき自分の店が火事にあって破産に陥ります。

そこで一時、加島稲荷の神職に住む場所を提供してもらっていたのだとか。

日頃から熱心に参詣していたからこそ、神職の方も手を差し伸べたのでしょうね。

また、この頃から友人のツテで医学を学び、39歳のとき医師を開業しています。

2年程度の知識で人の体を診ていいものなのか……とツッコミたいところですが、当時は現代のようなカリキュラムがあったわけでもないですしね。

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代表作『雨月物語』は、秋成が42歳のときのものです。

和漢の昔話をベースにした怪談が9編まとめられています。

一番有名なのは「浅茅が宿」でしょうか。

ろくでなしを絵に描いたような旦那と、それを見捨てない妻の(主に妻が)不幸なお話です。

『雨月物語』についてはamazonでも多数の関連書籍がありますので(→amazon)、気になる方はそこから入っていくのもいいかと。

個人的には西行と崇徳院が「山月記」にも似たやり取りをする「白峯」が好きです。

雨月物語/wikipediaより引用

 

鹿島稲荷の予言を超えて長生きを果たす

その後は寛政二年(1790年)に左眼を失明しながらも、物語の他に源氏物語の注釈書『ぬば玉の巻』や、考証『漢委奴国王金印考』、随筆集『癇癖談(くせものがたり)』など、幅広い文章を書いています。

また、京都に引っ越して妙法院宮真仁法親王、正親町三条公則、大田南畝など、上は法親王(出家した親王)から下(?)は狂歌師まで、さらに交友関係を広げました。カオスすぎる。

寛政十年(1798年)には一時的に右目も失明。

順風満帆ともいい難い状況でしたが、これは鍼医に治療してもらってなんとか回復したそうです。

その後も著作活動はしていますし、口述筆記だったとしたら、書いた人の名前も残るでしょうしね。

鹿島稲荷の予言が真実であれば、秋成は享和元年(1801年)には亡くなるはずでした。

それへの感謝をこめて、この年は自作の和歌集を奉納しています。

実際には8年ほど長生きしているので、この和歌集がお稲荷様のお気に召したのかもしれませんね。

秋成自身は覚悟を決めていたらしく、享和二年(1802年)には西福寺(左京区南禅寺草川町)に自分のお墓を作っていますが。その殊勝さがまたよかったのかもしれません。

秋成は子供がなく、妻にも先立たれていたため、最晩年は弟子の一人だった伏見稲荷の祠官・羽倉信美の家で面倒を見てもらっていたようです。

西福寺は銀閣寺から徒歩30分くらいのところですので、哲学の道や途中の寺社を訪れつつ、〆に秋成のお墓参りをするというコースも面白そうです。

それぞれの場所にはあまり関連はありませんが、京都は見どころが多いだけに、ジャンルよりエリアを絞ってじっくり見るのもアリですしね。

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長月 七紀・記

【参考】
上田秋成/鵜月洋『改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』(→amazon
上田秋成/wikipedia
雨月物語/wikipedia

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