おとなしい人だと思っていたら突然ブチ切れたり。
雨の日にヤンキーが子犬を拾っていたり。
イメージと現実が真逆というのは人類定番のお話ですが、過去には皇室においてもそういう方がおられました。
享保十七年(1732年)8月6日は、第112代天皇・霊元天皇が崩御された日。

霊元天皇/wikipediaより引用
江戸時代の天皇というと、将軍や幕閣の陰に隠れてしまい、なかなか話題になりませんが、調べてみると「すごい」としか言葉が出ないような方もチラホラいて、霊元天皇もその一人かと思われます。
個性的な霊元天皇のきょうだい
この方の父親は、江戸時代初期の天皇としてたびたび名前が出てくる後水尾天皇。
二代将軍・徳川秀忠の娘である和子を中宮に迎えた天皇ですね。

徳川和子/wikipediaより引用
その後【紫衣事件】やら諸々の軋轢もあったわけですが、それは霊元天皇を含めた子女たちにも影響を残しました。
後水尾天皇の子女は四人皇位を継いでいて、どの方も違う方向で濃い逸話を持っています。
まずは四人とも簡単にご紹介しておきましょう。
◆109代・明正天皇
→後水尾天皇が江戸幕府にキレたため、突然譲位されてしまった女帝
◆110代・後光明天皇
→京都所司代に「切腹できるもんならしてみろよw」とタンカをきった方
◆111代・後西天皇
→中継ぎ扱いだった上、たまたま天災が相次いで責任を取らされた方(´・ω・`)
◆112代・霊元天皇→今日この方
四人とも異母きょうだいなのに、なぜ皆さん個性的なのか。
後水尾天皇の性格からして、明正天皇と後西天皇が母親似で、後光明天皇と霊元天皇が父親似だったってことかな。
後光明天皇の強烈っぷりは以下の記事で取り上げておりますので、よろしければどうぞ。
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後光明天皇の豪快痛快エピソード|江戸幕府を相手に一歩も引かず!
続きを見る
父と同じく霊元天皇も35人の子供がいた
まあそれはともかく、子女の皆さんが若くして譲位したり、夭折したりしたにもかかわらず、父の後水尾天皇は譲位&出家した後もバリバリ元気で院政を行っていました。

後水尾天皇/wikipediaより引用
なにせ、霊元天皇が即位したのがわずか9歳の時ですからね。
しかし、いくらお元気でも寿命はあり、後水尾天皇が延宝八年(1680年)に崩御されてからは、霊元天皇も親政に乗り出しました。
26歳になっておりましたので、まだまだ若いとはいえ、17年も父の手腕を見ていれば大なり小なり学んでいたことでしょう。
むろん、江戸時代ですから、全国的に影響を及ぼすことはできません。
霊元天皇が力を注いだのは、皇室の威厳を取り戻すことと、そのために力になってくれる公家を集めることでした。
つまり、幕府と親しくしているのであれば、いくら名門の公家でも容赦なく干したのです。
霊元天皇の父や兄・後光明天皇と似ていたと思しき部分がそれに拍車をかけました。

後光明天皇/wikipediaより引用
若い公家と共にあまりよろしくない騒ぎを起こしたり、中宮や典侍(武家でいう側室)の他にも後宮の女性との間に多くの子供をもうけたり、懐事情の厳しい朝廷にとっては悩ましいことをいろいろしています。
ちなみに後水尾天皇も霊元天皇も35人の子供がいます。
この時代のことなので、数年で亡くなってしまった人もいますが、張り合ってでもいたのかとツッコミたくなるような人数ですね。
勇気ある公家の中には、これを諌める人もいて……「お前しばらく来なくていいわ」と言われておしまいでした。
さらに「母方の親戚が出しゃばってくるのを防ぐため」として、第一皇子を無理やり僧籍にしてしまったのですから大騒ぎです。
四代将軍・家綱が「せめてご相談を……」
なぜ第一皇子を僧籍にしたのか?
きっかけは「第一皇子の母が出産以降皇居に戻ってこないのが不満だった」とか、「その後に生まれた皇子のほうが可愛くなったから」とか、いろいろ言われていて、定かではありません。
しかも第一皇子だけならともかく、母方の親戚である小倉氏を粛清してしまいました。
さらにこの一連の処分には幕府への相談や許可が全くなく、ときの四代将軍・徳川家綱は「せめてお父様の後水尾天皇や、我が叔母でもある東福門院様(和子のこと)にご相談を」と言っても全く聞き入れませんでした。

徳川家綱/wikipediaより引用
幕府に承諾を求めたのは、その後、数年して後水尾天皇・東福門院・家綱の三人が相次いで亡くなってからのことです。
将軍に就いたばかりの五代将軍・徳川綱吉は、「ここで朝廷ともめては後々良くない」と考え、霊元天皇の望むとおりに許可を出しました。
もしかしたら、朝廷の中に「今度の将軍は尊皇家らしいので、今言えばすんなり許可が出ますよ」なんて調べをつけた人がいたかもしれませんね。おお黒い黒い。
まあ、そのおかげで霊元天皇と綱吉の時代は、比較的朝廷と幕府の間がうまく行っていたのですが。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
大嘗祭を復活させたり、学問や歌道も嗜んだり
その後は比較的早く息子の東山天皇へ位を譲り、父同様に院政を行いました。
長らく中断していた大嘗祭(天皇が始めて行う新嘗祭=収穫祭)を復活させたり、見方を変えれば幕府にケンカを売るようなことも平然とやっています。
これが徳川家光時代だったら危なかったかもしれません。

徳川家光/wikipediaより引用
しかし上記の通り、この時点の将軍は穏健派の綱吉だったので、何とか穏便に済みました。
ちなみにこのときも公家の中に「幕府との間に波風を立てるのはどうかと思います!」と諫言した人がいたのですが、霊元天皇だけでなく綱吉にも嫌われていたのでどうにもなりませんでした。ちょっと可哀相ですね(´・ω・`)
その後、東山天皇が親政をできる年頃になると「私もそろそろ楽隠居と行くかな」と言い出しましたが、実質的には孫の中御門天皇の代まで影響力を持ち続けました。
綱吉の後は六代・徳川家宣から七代・徳川家継へと、江戸幕府の中でも頻繁に将軍が変わっていたので、朝廷と幕府の全面対決には発展しておりません。よかったよかった。
ここまで政治の話(と女性・子供関係)ばかりですが、ご本人は学問や歌道もお好みだったようです。
ホント、何から何までお父上に似てますね。
日本史というと、どうしても源平や戦国時代、幕末が人気で、武家に目が行きがちですが、こうした個性的な天皇を調べてみるのもまた面白いものです。
以下の記事が、お父上の後水尾天皇の人物伝となります。
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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部 『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
霊元天皇/wikipedia





