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【霊元天皇】
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四代将軍・家綱が「せめてご相談を……」
なぜ第一皇子を僧籍にしたのか?
きっかけは「第一皇子の母が出産以降皇居に戻ってこないのが不満だった」とか、「その後に生まれた皇子のほうが可愛くなったから」とか、いろいろ言われていて、定かではありません。
しかも第一皇子だけならともかく、母方の親戚である小倉氏を粛清してしまいました。
さらにこの一連の処分には幕府への相談や許可が全くなく、ときの四代将軍・徳川家綱は「せめてお父様の後水尾天皇や、我が叔母でもある東福門院様(和子のこと)にご相談を」と言っても全く聞き入れませんでした。
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幕府に承諾を求めたのは、その後、数年して後水尾天皇・東福門院・家綱の三人が相次いで亡くなってからのことです。
将軍に就いたばかりの五代将軍・徳川綱吉は、「ここで朝廷ともめては後々良くない」と考え、霊元天皇の望むとおりに許可を出しました。
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もしかしたら、朝廷の中に「今度の将軍は尊皇家らしいので、今言えばすんなり許可が出ますよ」なんて調べをつけた人がいたかもしれませんね。おお黒い黒い。
まあ、そのおかげで霊元天皇と綱吉の時代は、比較的朝廷と幕府の間がうまく行っていたのですが。
大嘗祭を復活させたり、学問や歌道も嗜んだり
その後は比較的早く息子の東山天皇へ位を譲り、父同様に院政を行いました。
長らく中断していた大嘗祭(天皇が始めて行う新嘗祭=収穫祭)を復活させたり、見方を変えれば幕府にケンカを売るようなことも平然とやっています。
これが徳川家光の時代だったら危なかったかもしれません。
が、上記の通り、この時点の将軍は穏健派の綱吉だったので、何とか穏便に済みました。
ちなみにこのときも公家の中に「幕府との間に波風を立てるのはどうかと思います!」と諫言した人がいたのですが、霊元天皇だけでなく綱吉にも嫌われていたのでどうにもなりませんでした。ちょっと可哀相ですね(´・ω・`)
その後、東山天皇が親政をできる年頃になると「私もそろそろ楽隠居と行くかな」と言い出しましたが、実質的には孫の中御門天皇の代まで影響力を持ち続けました。
綱吉の後は六代・徳川家宣から七代・徳川家継へと、江戸幕府の中でも頻繁に将軍が変わっていたので、朝廷と幕府の全面対決には発展しておりません。よかったよかった。
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ここまで政治の話(と女性・子供関係)ばかりですが、ご本人は学問や歌道もお好みだったようです。
ホント、何から何までお父上に似てますね。
日本史というと、どうしても源平や戦国時代、幕末が人気で、武家に目が行きがちですが、こうした個性的な天皇を調べてみるのもまた面白いものです。
以下の記事が、お父上の後水尾天皇の人物伝となります。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部 『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
霊元天皇/wikipedia