最上徳内

最上徳内/wikipediaより引用

江戸時代

未開の時代に8度も蝦夷地(北海道)を探検した最上徳内って何者?

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
最上徳内
をクリックお願いします。

 

択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる

寛政四年(1792年)、今度は樺太調査を命じられ、五回目の蝦夷上陸を果たしました。

地理的な調査を行ったところ、松前藩がロシアや満州との密貿易や、アイヌへ弾圧をしているのではないかという疑念を抱いたようです。

翌年、江戸へ帰ると、今度は関東での仕事も命じられています。

河川の調査をしたり、通行する船への課税を担当する役所で働いたりしたのです。

蝦夷での経験があれば、こういったこともこなせると思われたのでしょうか。

そして寛政十年(1798年)、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案したことにより、再び幕府で調査隊が作られることになりました。

徳内もこれに加わって蝦夷へ向かいます。

実に七度目の蝦夷上陸です。

このときは「択捉島は日本の領地!」と宣言する「大日本恵登呂府」の標柱を立てたり、山林御用として日高山脈を切り開く新道を普請したりしています。

しかし、コトは順風満帆にはいきません。

隊の総裁・松平忠明と意見が衝突し、クビになりかけるのです。

 

シーボルトとも交流を持ち

江戸へ戻ってから、徳内は忠明の失策を意見書として提出し、その代わりに辞表も提出。

忠明がこれを受け取らなかったため、公職のままになっています。

「お前の見解はいけ好かないが、能力は評価しているから辞めさせない」ってところですかね。ナイス判断だったのではないでしょうか。

その後、数年間は公役や著述活動を行い、文化二年(1805年)に八度目の蝦夷調査に向かいました。

文化五年(1808年)には樺太詰も命ぜられ、後からやってきた樺太警固役の会津藩兵と合流し、大泊から南下した後、西岸へぐるっとまわるようなルートで調査を行っています。

そして同年夏には樺太を離れ、江戸へ戻ってきました。

帰るときも会津藩兵と同行していたそうなので、何かしらの交流があったでしょうね。

その後は高齢になってきたこともあり、蝦夷地へ向かうことはありませんでしたが、知的好奇心は生涯持ち続けていました。

文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師シーボルトが三年後に江戸へやってきた際、徳内がシーボルトの滞在先へたびたび訪れているのです。

シーボルト
シーボルトは生粋の親日家? あの事件から30年後に再来日していた

続きを見る

学問や北方事情についての話をするうちにすっかり打ち解け、徳内はシーボルトの日本研究に積極的に協力していきました。

このとき、徳内はシーボルトに樺太の地図を与えたといわれています。

シーボルトが文政十一年(1828年)に帰国する際、日本地図を持ち出そうとしてしょっぴかれたことがありましたが、徳内はお咎めなしで済みました。

当時の樺太は、正式な日本領ではなかったからですかね。

幕府とロシアの間で樺太の扱いについての話し合いが行われるのは、もう少し後の話ですし。

シーボルト事件
シーボルト事件に巻き込まれて獄中死した高橋景保が不憫でならない

続きを見る

こちらはシーボルトの著書『日本』に掲載された最上徳内の肖像画/Wikipediaより引用

この頃、徳内は既に74歳。

それから1836年に亡くなるまで、当時としてもかなり長生きしますので、まぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。

あと50年遅く生まれていたら、北海道へ移住していた可能性が高そうです。

あわせて読みたい関連記事

間宮林蔵
間宮林蔵は潜伏が得意な幕府のスパイ?樺太海峡を発見した農民の正体

続きを見る

松浦武四郎
蝦夷地を北海道と名付けた松浦武四郎~アイヌ搾取の暴虐に抵抗する

続きを見る

最上義光
最上義光(政宗の伯父)は東北随一の名将!誤解されがちな鮭様の実力

続きを見る

田沼意次
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む

続きを見る

徳川家治
リアリストで有能だった十代将軍・徳川家治は人情味も兼ね備えていた

続きを見る

松平定信
白河藩での手腕が抜群だった松平定信~なぜ寛政の改革では失敗した?

続きを見る

大黒屋光太夫
3700kmを漂流し10年かけて帰国を果たす~大黒屋光太夫はロシアで何を見たか

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
山形県村山市(→link
最上徳内/wikipedia

TOPページへ

 



-江戸時代

×