こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【最上徳内】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
松前藩には危険視され意次も失脚
こうした働きにより、徳内は幕府から「北方探索の功労者」として賞賛されました。
一方で、松前藩には危険人物として警戒されます。
原因は、場所請負制です。
場所請負制とは、松前藩独自の給料制度のようなものでした。
当時の北海道では「気候的に農業は無理」と考えられていたため、「領地を与えても家臣は食べていけない。ならば交易の権利を与えて、その収益を給料代わりにしよう」という制度が成り立ちました。
徳内は、その利権を侵害しかねない――と懸念されたのですね。
もしも徳内や幕府の調査隊によって、松前藩によるアイヌ搾取が問題になり、その後、幕府とアイヌやロシア人たちと直接的な交易が盛んにでもなれば、松前藩が食べていけなくなってしまいます。
意次の蝦夷地開発がうまくいけば、その辺も解決したのかもしれませんが……この年に十代将軍・徳川家治が亡くなり、意次は失脚してしまいました。
リアリストで有能だった十代将軍・徳川家治は人情味も兼ね備えていた
続きを見る
意次に代わって松平定信が老中になると、蝦夷地開発は中止とされました。
そのため徳内たちはいったん江戸へ戻り、その翌年、単身でこっそり松前藩菩提寺の法憧寺に入門し、調査を続けようとします。
松平定信は融通の利かない堅物だった?白河藩では手腕抜群でも寛政の改革で大失敗
続きを見る
これはあっさりバレて追い返されました。
忍ぶにしても潜伏先が大胆すぎるのかと。
更には知り合いの船頭を頼ってこれも失敗し、現在の青森県上北郡野辺地町の商家に婿入りして好機を待つことになりました。
なんだか婿入りされた奥さんが可愛そうな気も……。
アイヌが蜂起!で現地へ出向き
寛政元年(1789年)、にわかに風向きが変わります。
「商取引や労働環境に不満を持ったアイヌが蜂起した」との報が入り、調査隊にいた頃の上司である青島俊蔵にこれを知らせます。
現地調査のためやってきた俊蔵は徳内を同行させ、彼にとっては三度目となる蝦夷地上陸を果たします。
しかし、現地についた頃に蜂起は収まっていました。
「手ぶらで帰るのもどうよ」
そんな風に考えた一行は、北海道の西側から東側を調査して江戸へ帰ることにします。
俊蔵はこの報告書を提出したのですが、幕府には「蜂起が収まってたならさっさと帰ってくるべきじゃない? 何余計なことしてんの?(#^ω^)」(超訳)と思われ、2人揃って投獄されてしまいました。
そして、俊蔵はそのまま獄死。
徳内も病気になってしまいましたが、師匠である利明らの運動で釈放され、寛政二年(1790年)には釈放されます。
釈放された後は、普請役として蝦夷地に派遣されました。
これが四回目の蝦夷上陸。どんだけ北海道好きなんでしょう。あの広大な土地に魅了されちゃったんですかね。
このときは国後島・択捉島・得撫島の調査を行った他、アイヌに作物の栽培法を伝えたり、神社を作って日本文化の教化を試みました。
また「ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航する」という噂を聞いていたようです。
大黒屋光太夫送還の件かと思われます。
3700kmを漂流し10年かけて帰国を果たす~大黒屋光太夫はロシアで何を見たか
続きを見る
※続きは【次のページへ】をclick!