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【最上徳内】
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択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる
寛政四年(1792年)、今度は樺太調査を命じられ、五回目の蝦夷上陸を果たしました。
地理的な調査を行ったところ、松前藩がロシアや満州との密貿易や、アイヌへ弾圧をしているのではないかという疑念を抱いたようです。
翌年、江戸へ帰ると、今度は関東での仕事も命じられています。
河川の調査をしたり、通行する船への課税を担当する役所で働いたりしたのです。
蝦夷での経験があれば、こういったこともこなせると思われたのでしょうか。
そして寛政十年(1798年)、老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案したことにより、再び幕府で調査隊が作られることになりました。
徳内もこれに加わって蝦夷へ向かいます。
実に七度目の蝦夷上陸です。
このときは「択捉島は日本の領地!」と宣言する「大日本恵登呂府」の標柱を立てたり、山林御用として日高山脈を切り開く新道を普請したりしています。
しかし、コトは順風満帆にはいきません。
隊の総裁・松平忠明と意見が衝突し、クビになりかけるのです。
シーボルトとも交流を持ち
江戸へ戻ってから、徳内は忠明の失策を意見書として提出し、その代わりに辞表も提出。
忠明がこれを受け取らなかったため、公職のままになっています。
「お前の見解はいけ好かないが、能力は評価しているから辞めさせない」ってところですかね。ナイス判断だったのではないでしょうか。
その後、数年間は公役や著述活動を行い、文化二年(1805年)に八度目の蝦夷調査に向かいました。
文化五年(1808年)には樺太詰も命ぜられ、後からやってきた樺太警固役の会津藩兵と合流し、大泊から南下した後、西岸へぐるっとまわるようなルートで調査を行っています。
そして同年夏には樺太を離れ、江戸へ戻ってきました。
帰るときも会津藩兵と同行していたそうなので、何かしらの交流があったでしょうね。
その後は高齢になってきたこともあり、蝦夷地へ向かうことはありませんでしたが、知的好奇心は生涯持ち続けていました。
文政六年(1823年)に来日したドイツ人医師シーボルトが三年後に江戸へやってきた際、徳内がシーボルトの滞在先へたびたび訪れているのです。
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学問や北方事情についての話をするうちにすっかり打ち解け、徳内はシーボルトの日本研究に積極的に協力していきました。
このとき、徳内はシーボルトに樺太の地図を与えたといわれています。
シーボルトが文政十一年(1828年)に帰国する際、日本地図を持ち出そうとしてしょっぴかれたことがありましたが、徳内はお咎めなしで済みました。
当時の樺太は、正式な日本領ではなかったからですかね。
幕府とロシアの間で樺太の扱いについての話し合いが行われるのは、もう少し後の話ですし。
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この頃、徳内は既に74歳。
それから1836年に亡くなるまで、当時としてもかなり長生きしますので、まぁ幸せな人生だったのではないでしょうか。
あと50年遅く生まれていたら、北海道へ移住していた可能性が高そうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
山形県村山市(→link)
最上徳内/wikipedia