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【歌川広重】
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絵師として正式に独立したのは36才
かくして画家として歩み始めた広重も、一朝一夕にあの素晴らしい絵を描けるようになったわけではありません。
歌舞伎役者や舞台を楽しむ人々を描いた「役者絵」や、現代のブロマイドともいえる「美人画」なども書いていた時期もありました。
そしてそのうち「花鳥図」という風景画に近いものを手がけていくようになります。
”花鳥”図だからといって花や鳥しか描いてはいけないというわけではなく、虫や小動物などもおkだったので、風景画+生き物の絵といったほうがわかりやすいでしょうか。
そこで何か「ティン!」ときたのか。
花鳥図を始めてからは風景画に絞って作品を生んでいくことになります。
お師匠様の豊広が同じ時期に亡くなっているので、何かしら遺言や思うところがあったのかもしれません。
実はこのあたりまで公には役人を辞めていなかったのですが、36歳になって正式に絵師として独立しています。
後継者がいたから、幕府も何も言わなかったんですかね。
そして、この年に東海道を旅したことが、「東海道五十三次」制作のきっかけとなりました。
これが大ウケしたため、広重の絵は一気に世に知られるようになっていくのです。
世界中を魅了したヒロシゲブルー
それは日本国内だけではなく、海外でも同じでした。
モネやゴッホなど、この時代の西洋の画家が広重と似たような構図の絵を描いています。
ゴッホは特に広重の絵の模写を多数行っており、何とかして技法を学び取ろうとしていたのではないかという執念が感じられるような気さえします。
もしもゴッホが広重に会えていたら、もう少し希望を持つこともできたのかもしれません。
広重が亡くなる5年前にゴッホが生まれているので、時代的には無理なんですけども。
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また、広重の絵で水や空を示した青色の美しさは、ヨーロッパの人々を大いにひきつけ、「ヒロシゲブルー」と呼ばれるほどでした。
原料の鉱物はヨーロッパ産だったりするんですけどね。
広重や北斎の時代に清経由でイギリスから大量に日本へ入ってきたので、二人とも安価な絵の具として多用したようです。
化学の話になるので省略しますが、「プルシアンブルー」などの「◯◯ブルー」もヒロシゲブルーと原料の鉱物は同じです。
「フェルメール・ブルー」だけが違う原料なのだとか。
まあ、青というのは世界中で好まれている色だそうなので、それを美しく使いこなした人に対する尊敬の念もこめられているのでしょう。
「◯◯ブルー」という文字だけを眺めていると戦隊モノみたいですね……どうでもいい話でゴメンナサイ。
広重の辞世の句は
「東路へ 筆をのこして 旅のそら 西のみ国の 名ところを見ん」
と伝わっております(異説もあります)。
「死んだら極楽浄土の名所を見てみたい」という意味のようですが、それより「アナタの絵がヨーロッパ(西の国)でめちゃめちゃ評価されてまっせ!」と伝えたいところですね。
本人は名声よりも「良い景色を見たいだけなんじゃよ」と思っていたのでしょうけど。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
歌川広重/Wikipedia