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【米沢藩2代目~8代目】
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四代目 上杉綱憲(つなのり)
上記の通り、綱憲は綱勝の子供ではありません。
綱勝の妹が吉良義央(赤穂事件・忠臣蔵で殺される人)に嫁いで産んだ息子です。
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カーチャンの実家を継いだことになるわけですね。
そういう立場だからなのか。
綱憲は早めに結婚したり、次男を吉良家の養子に入れたり、後継者を意識したと思われる動きをたびたびしています。
他にも上杉謙信や上杉景勝の御年譜(公式記録)の編纂などを手掛け、文治政治と信賞必罰を進めました。
しかしその一方で奢侈(しゃし)に傾き、結局、財政改善には至っていません。
まだ末期養子の例が少なかったこともあり、「跡継ぎを決めてなかったとか武家として恥ずかしいよね^^」(超訳)という理由で30万石から15万石に減らされてしまったので、急に改善できるはずもありませんでした。
また、吉良家との結びつきが強くなったことで、同家に対してお金を使うことが多くなったから、というのも理由の一つです。
父が殺された件については、幕府の命令もあり関与していません。
意外にも思えますが
「幕府の命令>>>>>(越えられない壁)>>>>>実家への義理」
ということですね。
世間からは「浪士たちは主君の仇を取って立派なのに、父親を殺されて黙ってる上杉の殿様は腑抜け」「謙信も景勝も草葉の陰で泣いてるぞ」といった感じのことを言われたそうです。
そりゃ、庶民は何とでも言えますものね。
五代目 上杉吉憲(よしのり)
米沢藩では珍しく、父の生前に家督を継いでいます。
そのとき19歳だったのですが、継いで早々江戸城の半蔵門及び清水門の普請を命じられ、財政悪化が加速しました。
また、35歳のときに弟・勝周(かつちか)に1万石を分与し「米沢新田藩」として独立させています。
なぜこのタイミングで分知する必要があるのか?
謎です。
勝周の系統は養子を含め、その後の米沢藩を支える一柱となりましたので、結果オーライということで。
次の六代から八代の三人は全員吉憲の息子たち、しかも同母兄弟でした。
兄弟で藩主継承が行われたということは、それだけ若いうちに亡くなった人が多いということで、その……うん……。
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