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【米沢藩2代目~8代目】
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五代目 上杉吉憲(よしのり)
米沢藩では珍しく、父の生前に家督を継いでいます。
そのとき19歳だったのですが、継いで早々江戸城の半蔵門及び清水門の普請を命じられ、財政悪化が加速しました。
また、35歳のときに弟・勝周(かつちか)に1万石を分与し「米沢新田藩」として独立させています。
なぜこのタイミングで分知する必要があるのか?
謎です。
勝周の系統は養子を含め、その後の米沢藩を支える一柱となりましたので、結果オーライということで。
次の六代から八代の三人は全員吉憲の息子たち、しかも同母兄弟でした。
兄弟で藩主継承が行われたということは、それだけ若いうちに亡くなった人が多いということで、その……うん……。
六代目 上杉宗憲(むねのり)
父・吉憲の急死により、8歳で家督相続というまたしてもハードモードな人でした。
叔父・勝周が後見して何とかなったと思いきや、宗憲が19歳のときにやっぱり江戸城の普請を命じられたせいで窮乏が加速。
しかもその翌年に若くして急死しています。
死因はストレスか過労死なんじゃ……。
七代目 上杉宗房(むねふさ)
宗憲の弟で、末期養子になり跡を継ぎました。
年貢の延納許可や藩士の給料借り上げなどを行いましたが、効果はあまり出ませんでした。
兄と同じく、息子に恵まれないまま、28歳という若さで亡くなっています。
八代目 上杉重定(しげさだ)
宗憲・宗房の同母弟で、鷹山の義父(正室の父)です。
この頃になると、さすがの上杉家でも家臣の質が悪くなってきており、財政再建どころではありませんでした。
家臣同士の殺害事件まで起きています。
また、重定自身も政治への意欲は低く、財政再建の足を引っ張ってしまっていました。
しかし、鷹山が財政改善のために改革案を家中へ発表した際、家臣から侮られたときは「養子とはいえ、ワシの息子に無礼を申すか」とかばってくれています。
重定は娘の幸姫が、今でいう知的障害を持っていたことを知らなかったのですが、鷹山がそれに不平も言わず、正室扱いしてくれたことを感謝していたのでしょう。
だからこそ、鷹山も重定が趣味に金を使って家臣から「大殿様の金遣いはどうかと」と言われたとき「あれは義父上の生きがいだから」とかばったのだと思われます。
兄たちの数倍長生きしたのも、趣味に打ち込めたからなのかもしれません。
重定は鷹山と一緒に学者の講義を受けたりもしているので、なぜ財政再建だけ協力してやらなかったのかがよくわかりませんが……。
改めて見てみると、本当に上杉家はハードモードですね。
上杉鷹山もよくぞ返済できたものだと思いますが、当然ながら凄まじい神アイデアが次から次へと当たったワケではありません。
では鷹山は如何にして同家を建て直したのか?
詳細は以下の記事にお譲りしますので、皆様よろしければ併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
上杉定勝/wikipedia