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【平田篤胤】
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「天狗小僧寅吉」と名乗る少年を養子に迎え
30歳のときに私塾を開き、弟子を取っているほどですから、たった五年で少なくともその筋に知られるような存在になっていたのでしょう。
しかし、彼の著作の中には、宣長の弟子たちからすると「邪道」とみなされるものもあり、詐欺師と言われたこともありました。
篤胤は、特に死後の世界や神の存在について強く興味を惹かれていたようです。
妻に先立たれてからその傾向がより強まった感があるため、もしかしたら妻にもう一度会いたくて研究を進めたのかもしれません。
ホラーものの小説やゲームなら怪しげな呪術などに走るところですが、そうならなかったのは知性のなせる業でしょうか。
30代の間に著作や弟子も増え、各地の神社を巡ったりもしているので、生活に困ることはなかったと思われます。
大きな出来事としては、文政三年(1820年)のとき、江戸で「天狗小僧寅吉」と名乗る少年を養子に迎えたことでしょうか。
寅吉は「神様や仙人の世界に行って、術の修行をしてきた」と話しており、そういったことに関心のあった篤胤としては、詳しく話を聞きたくなったようです。
それにしても養子にしたのは凄すぎですが、通う時間も惜しんで話をしたかったんですかね。
なんせ寅吉を迎えて二年後には、彼が修行してきた世界に関する本を出しているくらいですから。
「神仙界に帰る」と言う寅吉に手紙を託す
現代よりも神や妖怪の存在が身近だった時代。
とはいえ実際に行って帰ってきた人なんて胡散臭いにもほどがあります。
当時も「子供を利用して、自分の都合のいいように証言させているに違いない」と批判されたようです。
が、篤胤自身は心底信じており、寅吉が「神仙界に帰る」と言いだしたときには、渡りをつけてくれるよう手紙を預けています。
残念ながら、その望みは叶わなかったようですが……その後も、多数の著作で異世界の存在を主張しているので、諦めてはいなかったと思われます。
これは、彼が死後の世界や「魂」というものについて、独特の考えを持っていたからでしょう。
篤胤が私淑していた宣長や、その弟子の一人・服部中庸は
「人の魂は死後、別の世界に行く」
と考えていました。
しかし、篤胤はこう捉えていたようです。
「死んだ人間の魂は死者の世界に行くが、死者の世界は現世と全く別というわけではない。
神々が神社に鎮座しているように、死者の魂は墓上に留まっている。
現世からは死者の世界を見ることはできないが、死者の魂は現世の人々を見守っていて、祭祀を通じて交流はできる。
つまり、死者は永遠に家族や友人・知人を見守っているのだ」
……死者の家族や知人が全員鬼籍に入った場合はどうなるんでしょうね。屁理屈でサーセン。
宣長の弟子たちは賛成派と反対派でモメる
また、篤胤は「死者の世界は大国主(おおくにぬし)が司る世界」だと考えていました。
大国主といえば、国譲りの神話や出雲大社の主祭神、縁結びの神です。
この“「縁」は生きている間だけでなく、死後も続く”という考え方は、篤胤の時代以前からあったという説もあるようです。
大国主自体も子沢山な神ですが、それに加えて天津神(皇室の祖先)の子孫たちの縁まで取り結んでいますし、さらに死後の世界までとなると仕事量がハンパじゃないですね。
しかも毎年10月には全国の神様が集まって大会議をするわけで……神様だから平気なんでしょうか。ゴッド、すげえ。
その辺のツッコミはともかく、こうした篤胤の考えは、庶民層に受け入れられて広まっていきます。
飢饉や災害が続いていた江戸時代、家族や友人を失った人も多かったはずですから、「死者は自分たちを見守ってくれている」という考えを信じ、生きる希望とした人がたくさんいたのでしょう。
現代でも、いわゆる“虫の知らせ”や「亡くなった家族が会いに来てくれた」というような話はよくありますよね。
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