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【平田篤胤】
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後継者にふさわしく、どの門人も篤胤には及ばない
文政六年(1823年)には、松坂にある宣長の墓参りや、朝廷へ自著を献上することなどを目的に近畿へ旅をしています。
しかし、宣長の墓参りということは当然、その弟子たちとも会うことになるわけです。
篤胤の存在は賛否両論だったため、弟子たちのほうではどう迎えるかで多少揉めたとか。
反対派は「篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけている」と主張し、歓迎したがりません。
一方、賛成派は篤胤の著作を高く評価し、「篤胤こそ宣長の後継者にふさわしく、どの門人も篤胤には及ばない」とする人もいたようです。
なんだかんだで最終的には賛成派に迎えられ、宣長の墓参りもできました。
伊勢神宮参拝や朝廷への献上も無事に終わり、一段と自信を得たようです。
幕府の暦を批判して秋田へ帰国命令&著作禁止
以降は暦や易学に傾倒し、神代文字(「かみよもじ」もしくは「じんだいもじ」)などの言語や文字の起源についても研究していました。
神代文字とは、日本に漢字が伝わる前に使われていたとされる日本独自の文字のことです。
鎌倉時代あたりから研究・議論されるようになっていましたが、篤胤の時代はもちろん、現代でも実在したかどうかがわかっていません。
漢字とは違いますが、甲骨文字に似たものもあるため、どちらにしろ中国の影響はありそうです。
死後の世界の存在を確信した後のことですから、次は幽霊と接触するために神代文字や占い・暦の研究をしたのでしょうか。
しかし、その熱心さが仇になってしまいます。
天保十二年(1841年)に幕府の暦を批判した書物を出版したことで、幕府に睨まれてしまったのです。
さほど影響がなかったからか。
あるいは幕末に向かった混乱の最中で余裕がなかったのか。
篤胤への刑罰は「秋田に帰ること」と「以降は著作活動禁止」の二つだけで済んでいます。
時代が少し前だったらだったら、もっと厳しい刑に処されていたかもしれません。
思ふこと 一つも神に つとめ終えず
失意の中、秋田に帰った篤胤は2年後に病没しました。
辞世は以下の通り。
【辞世】思ふこと 一つも神に つとめ終えず 今日やまかるか あたらこの世を
【意訳】やり遂げたいと思ったことを何一つ終えられないまま、今日この世をお暇してしまうのか
死後の世界を信じているのなら、死んだら死んだでその世界に行けるのだから、さほど嘆くことでもないような気がしますけれども。
そのための方法を後世に書き残したかったんですかね。なるほどわからん。
何にせよ、彼の思想が広まったことで、精神的に救われた人は多いはずです。
ならば、やり残したことがあったとしても、悪い人生ではなかったのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
平田篤胤/wikipedia