理性や理屈では整理できないことが起きたとき、信じたくなるのがオカルト。
歴史を遡れば占いや呪術などもその類かもしれませんが、もっと身近なことから、真摯かつ熱心にそれを研究した学者が江戸時代におりました。
天保十四年(1843)閏9月11日は、国学者の平田篤胤(あつたね)が亡くった日です。
学者さんというと、どことなく遠い存在のようにも思えますが、彼は現代の我々にとっても馴染み深い、とある概念を広めた人でした。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
父親と確執?ハタチで江戸へ出奔
平田篤胤は安永五年(1776年)、久保田藩(秋田藩)藩士の家に生まれました。
20歳までは地元にいたようですが、詳しいことはよくわかっておらず、本人も語りたがりませんでした。
後年の著作からすると、父親からあまり好かれていなかったらしく、勉強がしたいのにさせてもらえなかったフシがあります。
力仕事や雑用をさせられてばかりだったようで。
当然、居心地がいいわけもなく、20歳になった寛政七年(1795年)の年明けに出奔、江戸へ向かいました。
当時の秋田藩は財政難による給料借り上げや、後継者争いからお家騒動に発展するなど、不安定な状況です。
その上、父親から嫌われていたのでは、地元にいるのがイヤになっても仕方ないですよね。
無一文同然で江戸に出てきたため、下男(げなん・雑用などをこなす)のような仕事をして少しずつお金を稼ぎながら、学問を始めたようです。
備中松山藩士の目に留まり、養子になって道が拓ける
寛政十二年(1800年)。
勤め先の旅籠で、江戸詰めの備中松山藩士・平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目に留まり、養子になります。
勤勉な下男なら人手として欲しかったでしょうし、篤穏も兵学者だったので、気が合ったのかもしれませんね。
翌年には、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚しております。おそらく養父の斡旋でしょう。
結婚してから生活が安定して学問に打ち込めるようになったのか。
本居宣長の存在を知った篤胤は、著作を複数読んで深く感銘を受け、国学を志すようになります。
※以下は本居宣長の生涯まとめ記事となります
国学者・本居宣長の何がそんなに凄いのか?医学をやりつつ『古事記伝』を完成
続きを見る
残念ながら宣長が亡くなった後のことだったため、直接教えを請うことはできませんでしたが、持ち前の勤勉さで多くの知識を身に着け、さまざまな著作を世に出していきます。
ウィキペディアに著作が掲載されていますが、凄まじい数で……。
篤胤はかなり手が早く、かつ体力がある人だったようです。
「不眠不休で書き続け、疲れたら机に向かったまま眠り、起きてまた書く」というスタイル。
現代の作家にもたまにそういうタイプの人が居ますが、時代に依らないんですねえ。うらやましい。
※続きは【次のページへ】をclick!