松前城の歴史

松前城と大手門/函館市中央図書館蔵

江戸時代

なぜ石高ゼロで運営できた?戦国期から幕末までの松前藩ドタバタ歴史

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「無高」じゃない! 特異な大名

松前藩について調べだすと、まずぶちあたる疑問があります。

無高――すなわち収入ゼロ、石高ゼロ、ということです。

どういうこっちゃ?

実は当時、品種改良がされていない稲は蝦夷地では育ちませんでした。

稲作ができないならば、稲の収穫で計測する石高はゼロとしか言いようがないわけです。

異例ずくめの松前藩は、江戸時代初期は「賓客」待遇でした。

参勤交代も、毎年義務付けられた他の大名とは違い、3年に一度(のちに5年)で、在府期間も4ヶ月か5ヶ月程度。

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このような扱いをされたのは、他に対馬藩しかありません。

日本として認識されていなかったと思われます。

松前藩主・松前公広は、江戸時代初期の元和4年(1618年)、パードレ(宣教師)に対してこうコメントしております。

「日本ではキリスト教は禁教になりましたが、松前は日本ではありませんから訪れてもよいのですよ」

江戸時代初期、砂金掘りを偽装した切支丹が、金山が発見されていた蝦夷地にやってくることがあったのも、実はこうした背景もあったわけです。

しかし、それも長続きはしません。

寛永16年(1639年)【島原の乱】で痛い目にあった江戸幕府は、松前藩に対して切支丹を厳しく処罰せよと命じてきたのです。

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結果、潜んでいた切支丹が大量に処刑されたのでした。

日本ではない、そんな認識だった松前藩。

しかし幕府の統制が強まる中で、日本という枠組みに入ってゆくことになっていきます。

 


交易こそが命綱、しかし……

稲作ができない松前藩は、アイヌとの交易で収入を得るほかありません。

はじめは城下、のちに上級藩士に与えた知行で交易をすることになりました(商場知行制)。

交易品は、鮭、ニシン、数の子、アワビ、昆布といった海産物。

ほかに鷹の羽、アザラシ、熊の脂、ラッコ皮等があります。

取引相手はアイヌだけというのが、海禁政策江戸幕府支配下日本でのお約束です。

しかし、アイヌを介在して清やカムチャッカ半島とも貿易が行われていました。

独自の交易ルートが構築されたのです。

このように交易で儲けてゆく、そんな時代が続けばよいのですが、そうはいきません。

まず襲いかかってきたのが、災害ラッシュです。

寛永17年(1640年)に駒ヶ岳が大噴火。

北海道駒ヶ岳/photo by  wikipediaより引用

ラハール(火山泥流)、そして大津波が起こり、700名が死亡するという被害が出ました。

このあと蝦夷地は、有珠山に続き樽前山も噴火し、天災ラッシュに巻き込まれます。

火山灰が降り注ぎ、河川氾濫が起こるような、酷い状況でした。

アイヌの人々も、苦しい生活に追い込まれたはずです。

しかし、和人からすればそんなことはどうでもよかったのか、

「よし、あいつらにはどうせわからないだろうし、貿易を値上げして、こちらが一方的に儲かるようにしよう」という最悪の選択をしてしまうのでした。

アイヌは文字を持ちません。

計算についても、和人のほうが強いという偏見があったようで、松前藩は、交易比率を大々的に変え、3倍もの値上げを実施したのです。

ただでさえ天災により生活が苦しいアイヌの人々にとって、あまりに惨い仕打ちでした。

『これでは生活ができない!』

ついにアイヌは、シャクシャインのもとで蜂起します。

シャクシャインの反乱
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祟りか、それとも運が悪いだけなのか?

シャクシャインの戦いの後、松前藩はアイヌに対して統制を強めました。

藩としてはこれで一安心……と言いたいところですが、そうはいきません。

藩主に幼君が続き、政治が混乱したのです。

「門昌庵(もんしょうあん)の祟りじゃないのか……」

当時、松前藩にはそんな噂がありました。

門昌庵という寺の柏厳峰樹(はくがんほうじゅ)という和尚が、無実の女犯罪で藩によって斬首されていたのです。

それは、和尚が祟り、藩内で噴火だの、藩主夭折だの、家老怪死だの、不気味な事件が相次いだというあらましです。

祟りというよりも、それだけいろいろと問題があったということでしょう。他藩なら改易も見えて来そうなところです。

しかし、松前藩はその特殊性もあってか、幕府からの厳重注意程度で切り抜けました。

こうした最中、藩主の松前邦広は藩政改革を行い、立て直しに着手します。

貿易だけに頼っていた体制を見直し、藩士ではなく「場所請負商人」により交易を行うようにしたのです。

元禄・享保期から、ニシンを潰した肥料が利用され始めます。

このことも、松前藩にとってはプラス要素となりました。

貿易だけの状態から脱出をはかる松前藩はなかなか順調にいきそうに思えました。しかし……。

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