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【松平定信】
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禁断の借金チャラを出してしまい……
確かに、農村の復興や失業者の救済など、良い政策もやりました。
が、演劇や貸本(当時の図書館もしくはレンタルビデオ屋)といった娯楽や、贅沢な衣服&装飾品を禁止。
さらには違反者をとっ捕まえるのはやりすぎだったでしょう。
また、悪政の代名詞こと棄捐令もやっています。
旗本・御家人の借金をチャラにしたり、軽くして計画返済させたりするもので、当然ながら貸主からすれば大不評なやり口です。
なぜ松平定信ほどの人が、こんな誰も成功したことがない政策を実行したのか。ちょっと理解に苦しむほどです。
どうも定信という人は「こうすればウチはうまく行く!!」と思ったが最後、他のデメリットに一切気が回らないという悪癖があったように感じます。
天明の大飢饉の際も、自藩のために食料を買い込んだのはいいとして、その分、他の藩が買えなくなるわけですから、餓死者が「どこで死んだか」という点しか変わっていないわけです。
そんなわけで世間でも悪評が上回るようになるだけでなく、将軍の贅沢まで厳しく禁じたため徳川家斉に殺意を抱かれるほど嫌われ、松平定信もまた失脚したのでした。
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なお、失脚したのは寛政五年(1793年)のことで、それから約36年間も別の人生を送っています。
古巣の白河藩で働きながら、自叙伝『宇下人言(うげのひとごと)』などを執筆したりしていました。
現代の刑務所は定信の人足寄場と同じ発想
最後に。
松平定信がやったことの中で一つ、後世にも大きく役立ったものがあります。
ホームレス救済施設こと「人足寄場(にんそくよせば)」です。
ものすごく大雑把にいうと「お上が三年間だけ衣食住と体調不良の面倒を見る代わりに、ここで働いて金を貯めて、日常生活を送れるようになろう」という施設で、軽犯罪者の更生施設も兼ねていました。
仕事の内容は主に大工や農作業、手工業(縄ないやろうそく作りなど)で、経験がある者はそのまま行い、素人には指導をしてやらせていたとか。
これ、現代の日本の刑務所とほぼ同じですよね。
「社会復帰のための準備をさせる」施設であり、そういった意味では、現在の日本にも影響を及ぼしている政治家といえるかもしれません。
もちろん、人足寄場でも物資をちょろまかしたり、屁理屈をこねて開き直ったりする不届き者はいたそうなので、全てがうまくいっていたわけではないのですけどね。
現在では福祉の方面から人足寄場を研究している先生もいらっしゃるようです。なので、今後、松平定信についてもっとクローズアップされる日が来るかもしれません。
寛政の改革については以下の記事にてマトメておりますので、よろしければ併せて御覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
松平定信/wikipedia
白河観光物産協会ホームページ(→link)
人足寄場における福祉的処遇(J. Fac. Edu. Saga Univ.)(→link)