こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【間部詮房】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
月光院が失墜したばかりか将軍も亡くなってしまい
そんな間部詮房に、ついに終わりのときがやってきました。
理由の一つとなったのが、江戸時代きっての綱紀粛清である【絵島生島事件(江島生島事件)】です。
かなり要約しますと
「月光院の代わりに家宣のお墓参りに行った絵島が、その帰りに歌舞伎を見物し、気に入った役者と密会」
↓
発覚
↓
「大奥に対する綱紀粛正として多くの人が罰せられる」
というものです。
お芝居などでは「衣装箱に役者を潜ませて大奥に連れ込んだ」などと話が誇張されていますね。
この事件で最も重く罰せられた絵島という女性は、月光院の右腕。
そのため月光院も幕府に対する影響力を失い、詮房もまた後ろ盾を半分失うような形になりました。
さらに、二つめの理由によって詮房は完全に権力を失います。
元々病弱だった家継が、わずか7歳で亡くなってしまったのです。
次に将軍になったのは、暴れん坊将軍こと徳川吉宗。
「権現様の時代になかったものは一旦全部取り消し!」ということで、側用人という新しい(そして絶大な権力を持っていた)役職についていた詮房はものの見事にクビになってしまいました。
領地も江戸から遠く離れた場所へ変えられています。
庇い立てしてくれる幕閣もおらず、詮房はその後一大名として生涯を閉じることになりました。
家自体は江戸期を生き抜く
最後は寂しい終わりとなった詮房。
間部家そのものは江戸時代を生き抜いています。
詮房には息子がいなかったので弟を養子にして跡を継がせ、幕末には「間部の青鬼」と呼ばれた老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)を輩出、明治時代には子爵の地位も与えられました。
家としては充分に勝ち組ですね。
もし、当時の日本が「仕事できるならプライベートで何してようとおk」という方針だったとしたら、そもそも江島生島事件は問題にならず、詮房も失脚しなかったでしょう。
たとえ能力が高くても、普段から調和にも気を払っておかないと厳しいのが大きな組織かもしれませんね。
間部詮房は、石田三成あたりとウマが合いそうな気もします。
あわせて読みたい関連記事
石田三成・日本史随一の嫌われ者の再評価とは? 豊臣を支えた忠臣41年の生涯
続きを見る
在任3年で亡くなった六代将軍・徳川家宣は意外とデキる 白石を用いた政治改革へ
続きを見る
徳川綱吉は犬公方というより名君では?暴力排除で倫理を広めた人格者
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
幕府に呼ばれ吉宗に追い出された新井白石~学者は政治に向いてない?
続きを見る
松平定信は融通の利かない堅物だった?白河藩では手腕抜群でも寛政の改革で大失敗
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
間部詮房/Wikipedia