歌川広重

歌川広重/wikipediaより引用

江戸時代

歌川広重~元御家人の地味な絵師が世界のヒロシゲブルーに成長するまでの軌跡

世界に影響を与えた江戸時代の浮世絵師と言えば?

そう問われて真っ先に頭に浮かぶのは、葛飾北斎歌川広重でしょう。

北斎につきましては以下の記事に詳細がありますので、

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今回注目したいのは歌川広重。

ゴッホやマネにも影響を及ぼし、風景画の名手とされるこの広重、元々は武士の身分から絵師となるも、若い頃は鳴かず飛ばずの存在でした。

彼の絵は、特に売れ線ではなかったのです。

世界に冠たる“ヒロシゲブルー“から考えると意外かもしれませんが、当時の版元や江戸っ子からすれば当然かもしれません。

「いやおめェよォ、そもそも風景画が得意って時点で、売れっ子には遠いからなぁ」

と、一口に浮世絵といってもジャンルによって人気は様々で、全員が全員、売れっ子というわけでもありません。

ではいったい歌川広重は若い頃はどんな絵を描き、以降、どのようにして人気絵師となっていったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

三代目歌川豊国による歌川広重の死絵/wikipediaより引用

 

風景画は売れないジャンルだった

まずは当時の浮世絵業界の事情から確認しておきたいと思います。

歌川広重の作品は確かに優れていました。

東洋から来た斬新な絵として、ゴッホやマネが驚いたとしても何の不思議もありません。

歌川広重『名所江戸百景』/wikipediaより引用

しかし、です。

浮世絵は、あくまで江戸庶民が消費する大衆向けの商品であり、その観点からすると【風景画】は売れ筋からはほど遠いジャンルでした。

現代におけるカレンダーや週刊誌のグラビアを思い浮かべてください。

風景写真も定番のジャンルですが、ファンが熱狂的に求めるものだろうか?と言えばそうではなく、もっと別のものがありますよね。

歌い踊るアイドル。

美しい俳優。

ホームランを決める野球選手。

アニメや映画、ゲームの主人公。

オフィスや居間に貼るようなものであれば、無難な風景写真が好まれるかもしれませんが、推し活の一環で自分の部屋に貼るなら、当然、上記のようなジャンルでしょう。

しかも当時の浮世絵は、蕎麦一杯の値段で買える庶民の娯楽ですから、数が多く捌けるジャンルで勝負せねばならず、どうしたってミーハーな路線に向かいます。

美人画、役者絵、力士絵、武者絵、物語絵などなど……当時の江戸っ子が推すカリスマの絵をこなせなければ、版元も絵師も懐は暖まりません。

歌川広重も、たしかに美人画や役者絵は手掛けていました。

しかし、それがどうにもパッとせず、燻る一因になっていた。

そんな蟻地獄から脱し、非常に地味なジャンルの風景画でカリスマとなるのですから、いわば広重は特別な絵師と言える。

では、それはいつから特別だったのか。

遅くなりましたが、広重の幼少期から振り返ってまいりましょう。

 

貧しい武士として、食べていくために絵師となる

寛政9年(1797年)――。

江戸八代洲河岸(やよすがし)にある定火消屋敷の同心・安藤源右衛門に男子が生まれ、徳太郎と名付けられました。

身分が低いとはいえ、御家人の生まれです。

彼の上には姉が二人、妹が一人いて、二番目の姉は夭折していました。

幼いころから絵を好んだ徳太郎。

文化3年(1806年)、10歳の時には琉球使節の姿を描きあげています。

この絵はあくまで伝広重筆であり、本人筆と確定しているとは言えませんが、それでも幼い頃から絵が得意だと思われていたことは確かなのでしょう。

※以下のツイート参照

文化6年(1809年)、突如として安藤家を不幸が襲います。

源右衛門の妻が亡くなり、隠退した源右衛門も後を追うように没してしまったのです。

家督はまだ13歳、重右衛門と名を改めたばかりの長男に譲られました。

そしてその重右衛門は文化8年(1811年)に浮世絵師の門を叩きます。

まずは人気絶頂の歌川豊国に弟子入りを志願するものの、人気がありすぎて断られてしまい、次に歌川豊広の元へ向かいました。

御家人として家督を継ぎながら、なぜ浮世絵師になろうとするのか。

絵が得意だったからということはむろんあるでしょう。

しかし、単にそれだけでなく「家計を補いたい」という動機もあった。三十俵二人扶持ではあまりに生活が苦しかったのです。

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江戸時代も後期となれば、身分制度も経済も、従来の体制は崩壊しており、御家人だろうと扶持だけでは食べていけない状況に陥っていました。

一方で浮世絵師ならば食っていける。

当時、花開いていた商業出版の波に乗れば、腕一本で金を稼げたのです。

重右衛門が初めに弟子入りを志願して断られた豊国は、華やかな【役者絵】と【美人画】で人気を博しておりました。

【役者絵】は推し活に励む江戸っ子が買い、【美人画】はいうまでもなく男性に人気がある、定番のジャンルです。

しかし、その弟弟子である豊広は、豊国ほど派手ではなく、穏やかなタッチの美人画を得意としていました。

歌川豊広『江戸八景 佃島帰帆』/wikipediaより引用

 

浮世絵師・歌川広重の下積み時代

豊広の弟子となった重右衛門は、文化8年(1811年)、入門から一年ほどで師から一字をもらい、「広重」と名乗るようになりました。

かくして誕生した歌川広重――時代が生んだ存在とも言えますが、実際に芽が出るまでには相当な時間を要しています。

文化15年(1818年)、定火消として活躍して幕府から褒賞を得ると、文政6年(1823年)、定火消の家督を親族の仲次郎に譲りました。

仲次郎はまだ8歳だったため、天保3年(1832年)までは、広重が番代としてその代理を務めています。

ともあれ、武士の身分を捨て、以降は絵師として歩む決意を固めた広重。

文政12年(1829年)に師である豊広が没してしまいました。

広重は名を継ぐよう勧められるものの、まだまだ未熟であるとして断っています。

謙虚ゆえに断ったのか?と思うかもしれませんが、妥当とも言える。当時の広重は、豊広の他の弟子たちの中でも埋没してしまうような、目立たぬ存在だったのです。

念願の絵師となった広重は、模索が続いていました。

美人画、武者絵、見物絵巻、挿絵、摺物などなど……当時、定番のジャンルを手掛けてみるも、なかなか個性を発揮できすることはできない。

売れっ子浮世絵師が多い時代にあって、広重は埋没気味でした。

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