こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【井原西鶴】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
さすがに4,000句ってのは……成功!
西鶴は、歯噛みする思いで再び即吟記録更新を目指し、延宝八年(1680年)に再び独吟を行います。
今度の目標は、なんと4,000句。
しかもバッチリ成功しています。頭おかしい(褒め言葉)。
しかし、これで万々歳とはいきません。
天和二年(1682年)に師匠の宗因が亡くなり、これをキッカケに談林俳諧そのものが下火になってしまうのです。
松尾芭蕉を中心とする、新しい作風が優勢になっていたことも理由でした。
西鶴と芭蕉が同時に語られるということはあまりありませんが、実は彼らは同世代。
その辺も、もしかしたら西鶴の対抗心に日をつけたかもしれません。
俳人の前は帳簿の仕事もしていた?俳聖・松尾芭蕉の知られざる生涯51年まとめ
続きを見る
西鶴はプライドをかけて、貞享元年(1684年)、大坂の住吉神社において2万3,500句独吟の矢数俳諧を興行し、成功しています。
もう私だったら確実に脳みそパンク。
しかし、それは西鶴も同じだったようで、この後、こんなわかりやすい歌を作っています。
「射て見たが 何の根もない 大矢数」
言わば「一人で悲願と気合を入れてやってみたが、結局何も変わらなかった」ということであり、何やら徒労感を感じさせますね。
”真っ白に燃え尽きた”矢吹ジョーな空気さえ漂っています。
『好色一代男』で小説家デビュー
西鶴は40代に入っていました。
「四十にして惑わず」という「不惑」という異称がありますが、西鶴もこの年代になってみて、今までの生き方ややり方を改めようと思い立ったのかもしれません。
天和二年(1682年)に今なお著名な『好色一代男』を執筆して、翌年出版。
俳句を離れて、小説家としてデビューします。
実はこの作品、当初は俳諧師の仲間うちに向け、私家版として出版したものでした。
それが意外な反響を得て『好色一代男』は、西鶴が新しい道へ進むキッカケとなります。
「当初は小さな作品だったが、高い評判を得て世間に広がった」というのは、文学に限らずマンガなどの世界でも割とある話ですね。
時代が前後しますが、夏目漱石の『吾輩は猫である』も似たようなものです。
貞享元年(1684年)には、この好評を聞きつけた江戸の本屋が、菱川師宣の絵をつけて「好色一代男」を再出版。
大坂でも、ビジネスチャンスの匂いを嗅ぎつけた本屋が続編として『諸艶大鑑(しょえんおおかがみ・しょえんたいかん)』(別名『好色二代男』とも)を出版します。
現代で言えば月9とか朝ドラ的な?
新しい生き方を見つけられると感じたのでしょう。
『好色一代男』の成功を受け、西鶴は住吉で最後の矢数俳諧を行いました。
小説の他に、浄瑠璃の脚本なども書くようになり、創作意欲が高まっていったようです。
以降、西鶴は主に「浮世草子(うきよぞうし)」の作家として名を知られていくことになります。
「浮世」とは、我々が生きているこの世界、あるいは世間を指します。
「草子」は紙を綴じた本のことです。
なので
「浮世草子」=「現世によくあるようなネタを描いた小説」
というような意味になります。
現代でいえば、いわゆる”月9”や朝ドラみたいなものかもしれません……いや、深夜放送みたいな話もあるんですけど。
※続きは【次のページへ】をclick!