源平合戦こと治承・寿永の乱に勝利した源頼朝。
その後の課題は鎌倉政権の足固めであり、目の上のたんこぶとなっていたのが奥州藤原氏でした。
金山という財力を背景に、無傷の軍隊も有している。
おまけに軍略の天才・源義経が逃げ込んだとあれば、とても無視できる状況ではなく、攻め込む機会を虎視眈々と狙っていました。
そこで頼朝が目をつけたのが奥州藤原氏の兄弟不和。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも泰衡と国衡の二人が揉め、ついには義経を死に追いやる悲劇の展開となっていましたが、いったい史実ではどうだったのか?
奥州藤原氏の兄弟にスポットを当てながら、奥州合戦を振り返ってみましょう。
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秀衡の跡継ぎは泰衡か国衡か
平家を滅亡に追い込む上で多大な功績をあげるも、兄・源頼朝と対立してしまった源義経。
行く先を失った彼は奥州へ逃れました。
この逃避行の一幕を描いた能「安宅」および歌舞伎「勧進帳」は名作として名高いものです。
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苦労の末、ようやく訪れた奥州平泉。
しかし、そこで義経の命運は絶えてしまいます。
一年も経たない文治3年10月29日(1187年11月30日)――頼みの綱であった藤原秀衡が没してしまったのです。
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金山という財力を背景に、国力を充実させた秀衡。
彼は偉大な人物でしたが、跡を継がせる我が子となると一抹の不安がありました。
秀衡には多数の男子がいました。
正室(ドラマでは“とく”/天野眞由美さん)を母とする藤原泰衡。
その上にいる異母兄の藤原国衡。
母方の血を重視すれば泰衡が当主候補筆頭であり、しかし生まれ順を重視すれば国衡となる。
では誰を嫡男にするか。
そんな対立が生じていて、父の秀衡は我が子や家臣団たちの対立解消に心を砕いていたのです。
秀衡は死に際に、こう言い残しました。
「兄弟で手を取り合い、その上に義経を置き、頼朝と対決するように」
ドラマでもそんな場面が印象的でしたね。
しかし、これまた劇中でもあったように、兄弟の対立や、反鎌倉という姿勢は、頼朝にとって付け入る隙といえました。
京都と鎌倉に急かされて
文治4年(1188年)、京都からこんな宣旨が出されます。
源義経を討つべし――
源平が激しく争っている最中、虎視眈々と戦況を伺っていた奥州には、侮れぬ軍事力がありました。
そんな軍隊を軍略の天才・源義経が率いて、鎌倉を突いたらどうなるか?
そうした意図が理解できない泰衡でもありません。
父の遺言か?
それとも京都の宣旨か?
泰衡には、過酷な選択肢がつきつけられました。
鎌倉では、義経を討つべく、続々と御家人たちが集まっている――そんな情報も入ってきています。
平家を滅亡においやった鎌倉の軍勢と真正面からぶつかりあって勝てるのか?
そんな懊悩に苦しめられた泰衡は、ついに決意を固めます。
奥州藤原氏を保つためには義経を討つしかない!
かくして文治5年(1189年)閏4月30日、泰衡は衣川館に軍勢を派遣しました。
弁慶らが敵の前に立ちはだかる中、源義経は妻の郷御前、4歳の娘を刺し殺し、自らも自害。
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義経の首は、美酒に浸され、黒漆塗りの櫃で鎌倉へ。およそ一ヶ月半かけて、頼朝のもとに辿り着きました。
鎌倉と対立するつもりはない。
どうしても戦は避けたい。
そう考えた泰衡は、さらに頼朝らに恭順の意を示すため、驚くべき行動に出ています。
義経の死から二ヶ月後に異母弟の藤原頼衡(六男/川並淳一さん)、さらにその四ヶ月後に別の異母弟・藤原忠衡(三男)を誅殺するのです。
「義経に味方していた」というのが表向きの理由であり、弟を手にかけてまで頼朝にすり寄りました。
※頼衡は史料に乏しく、実在を疑う説もあります
結果、どうなったか?
義経の死の一報は京都にも届き、朝廷は「めでたいこと」と見なしました。
彼らはそれ以上の戦乱は望んでおらず、ようやく弓矢をしまう時が来たと安心し、鎌倉にも祝意を伝えます。
泰衡にしてみても、宣旨通りに義経を討ったからには一件落着という思いもあったでしょう。
しかし……。
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