歌川芳虎『奥州高館大合戦』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

奥州藤原氏は兄弟不仲につけこまれて頼朝に滅ぼされたのか? 鎌倉奥州合戦考察

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奥州藤原氏の兄弟不仲
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鎌倉は朝廷の命令を求めず出兵

義経を討つにせよ、首が鎌倉へ届けられるにせよ、結構な日数がかかりました。

こうした状況から藤原泰衡が迷い悩み、彼の行動に逡巡が見られたことは間違いないでしょう。

それは鎌倉にとってはチャンスでした。

軍備はじめ様々な準備を整えていたのです。

実は義経の奥州潜伏については、鎌倉でも早い段階から認識していました。

秀衡が没する文治4年(1188年)には、朝廷が頼朝を追討使に任じていたのです。

しかし頼朝は、亡母供養の五重塔建立と厄年を理由に断っていました。

義経が自害するのは文治5年(1189年)閏4月30日ですから、頼朝は一年以上放置していたのです。

表向きの理由はさておき、長く続いた源平合戦からの損耗を癒やすのに必要な期間だったのでしょう。

そして文治5年(1189年)、『吾妻鏡』には奥州平定を願った神事の記述が見られます。

準備万端の鎌倉軍。

奥州平定の祈願が幾度も実施され、その間に「奥州を攻め取れば所領が増える」と戦意を高揚させていたならば、武士たちの胸も高まったことでしょう。

そして出陣!

とは、なりませんでした。いざ頼朝が立ち上がろうとすると、朝廷側がトーンダウンしていて追討の宣旨が得られなかったのです。

つまり藤原泰衡の読みは当たっていました。

義経が討たれたからには、奥州で合戦をする意義はない。

鎌倉軍が奥州へ攻め込む理由が掲げられない。

そこで頼朝の側で重用されていた大庭景能が『十八史略』前漢文帝の故事を引きます。

軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。

軍事では将軍の命令を聞くものであり、天子の詔を聞かないとかなんとか言います。

「奥州の平定は朝廷とは関わりなく、武士の内戦とすべきである」

そう解釈し、鎌倉は未曾有の大軍勢を率い出立したのです。

ドラマでは、いささか愚鈍な人物造形の藤原泰衡でしたが、頼朝の行動を予測できなかったとしても仕方ありません。

「まさか朝廷の意に叛くとは……」

と、まるで前例がない禁じ手を頼朝が繰り出したのです。

鎌倉vs奥州藤原氏

その戦いは、無惨なものでした。あまりに兵力差があるためマトモな戦いにすらならず、鎧袖一触、平泉ですら兵も残っていないような状況でした。

奥州合戦】は、義経が活躍した源平合戦とはかなり内容が異なります。

・鎌倉が仕掛けた空前の大動員

・参陣するかどうかだけで鎌倉政権での待遇まで決まる

・武士同士が戦果を誇り合う

・奥州へ向かう名所で詠み合う和歌

そこには紙一重で勝敗を祈るような必死な悲壮感はありません。

源頼朝にとって【奥州合戦】とは、己のもとに武士を集結させ、政権を固めるためのアピールだったのです。

奥州藤原氏にとって、唯一の救いは最後の最後で兄弟が手を取り合ったことでしょうか。

戦いとは、対立していた者同士を結合させます。

泰衡と国衡も、押し寄せる軍勢を前にしては協力するしかありません。

文治5年(1189年)8月、大将軍・藤原国衡は【阿津賀志山の戦い】の最中に和田義盛の矢に当たり、その後、畠山重忠の家臣・大串次郎によって討ち取られたのでした。

そして9月3日(1189年10月14日)、追い詰められた泰衡は、裏切りにあい討たれました。

藤原泰衡
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天才兄弟

源義経は、軍略の天才とみなされます。

平家を追い詰めてゆく最中に起きた【一ノ谷の戦い】や【壇ノ浦の戦い】など、あっと驚く奇襲で敵を粉砕した手腕は見事というほかありません。

一方で、兄の源頼朝はどうでしょう?

彼は自ら前線に立つことなく、勝利を重ねてゆきました。

奥州合戦でも、朝廷と駆け引きをし、藤原氏の分裂につけこみ、泰衡に揺さぶりをかける――。

その結果、労せず義経を討ち取り、さらには奥州藤原氏も楽々と滅亡へ追い込みました。

義経が前線に立つ合戦の天才ならば、頼朝は政治の天才でしょう。

『史記』「高祖本紀」では、劉邦の軍師である張良をこう評しています。

籌(はかりごと)を帷幄(いあく)に運(めぐ)らし、勝ちを千里の外に決す。

本陣の幕の中で計略をめぐらせ、遠く離れた場所での勝利を決める

前線に立たずとも勝利をもたらす――その手腕に長けた者が名将と呼ばれます。

義経だけでなく、頼朝もまた天才だったのでしょう。

しかし哀しいかな、彼ら兄弟にしても藤原兄弟にしても、目の前に敵がいれば協力しあえるけれど、平時においては分裂してしまった。

そこには悲しき人の性(さが)が見え隠れします。

奥州合戦から約400年後と約700年後――。

「東国入りした軍勢が奥州へ攻め込む」という歴史は繰り返されました。

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そんな歴史が日本に刻まれました。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
関幸彦『東北の騒乱と奥州合戦』(→amazon
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(→amazon

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