大河ドラマ『べらぼう』の第13回放送から登場する山東京伝(さんとうきょうでん)。
時代劇の二枚目役がピタリとハマる古川雄大さんが演じておりますが、そもそも山東京伝をご存知の方はどれほどいるでしょう。
「江戸時代の小説家?」
「授業でチラッと習ったような……」
「記憶にない」
といったように、現代ではかなり影の薄い存在と思われますが、先入観を消し去って、以下の肖像画をご覧いただくと、何か伝わってくるものはありませんか?

『江戸花京橋名取 山東京伝像』鳲鳩斎栄里(鳥橋斎栄里)筆/wikipediaより引用
口元に微笑みを浮かべながら、煙管を手にする手のしなり。
何か余裕があるというか気品があるというか。
実はこの山東京伝こそ、江戸後期を代表する洒落たセンスの文人であり、現代で言えばインフルエンサー的な存在でした。
「パリピ」「陽キャ」「リア充」といったスラングが当てはまり、2025大河ドラマ『べらぼう』の主役・蔦屋重三郎とも関わりがあるため、劇中での活躍も期待できる。
それゆえ古川雄大さんという、華やかで涼しげな俳優が抜擢されたのでしょう。
当時もう一人の人気作家であり、京伝のことを一方的にライバル視していた陰キャの曲亭馬琴とはまるで異なる、オシャレな人物として人気を博していた山東京伝。
江戸時代も後期となれば、最も華やかな層は、支配者である武士ではありません。
謹厳実直でストイックであろうとする幕府の目を掻い潜り、江戸の粋を極めた文人たちでした。
そして、その頂点に立っていたのが山東京伝――本記事ではその生涯を振り返ってみたいと思います。
才気あふれる愛くるしい少年・甚太郎
宝暦11年(1761年)8月15日、江戸深川木場に暮らす岩瀬伝左衛門と大森氏の間に男児が生まれ、甚太郎と名付けられました。
このとき父はもう四十を過ぎていたとされ、待望の子であったことでしょう。
木場の街は材木商が集う、賑やかな場所。
色白で目がぱっちりとしたかわいらしい甚太郎を、両親はかわいがって育て、彼はおっとりとした少年になってゆきました。
9歳で寺入り(入学)を果たすと、少年は利発さを発揮し始め、13歳のとき一家は銀座へ居を移します。
今に至るまでトレンドの最先端であるこの場所で、甚太郎は幼名から伝蔵と名を改め、洗練された空気を浴びながら健やかに育つのでした。
新星、江戸の文壇にあらわる
伝蔵はこの頃から長唄と三味線を習っていました。
さらには北尾重政に絵画を学ぶのですから、まさに“粋”という他ありません。本人は、画工として「北尾政演」を名乗っています。

北尾重政『芸者と箱屋』/wikipediaより引用
安永7年(1778年)、18歳で黄表紙『お花半七開帳利益札遊合』を発表し、挿絵作家としてデビューを果たすと、その2年後の安永9年(1780年)には『娘敵討古郷錦』と『米饅頭始』を刊行。
若き文人として名を馳せてゆきます。
「山東京伝」を名乗り出したのは、さらに2年後の天明2年(1782年)頃からです。
この22歳からおよそ10年ほどの彼の人生は、次から次へと作品を発表し、遊里で名を馳せる、人生の絶頂期と言えるでしょう。
では、その作風の強みとはいったい何なのか?
銀座で育ち培ってきた、洒落たセンス。
こればかりは、どれだけ才能があろうと努力を重ねようと、本人の頑張りだけではカバーしきれないものであり、吉原で遊ぶ色男の様を描かせたら、山東京伝の右に出る者はいない。
読むだけでお洒落になれそう――『江戸生艶樺焼』といった作品には、そんなエッセンスが詰まっています。
さほどのリアリズムとセンスが読者を惹きつけました。
しかし、その栄光にも影がさしてきます。
田沼意次の失脚
天明6年(1786年)、開明的な重商政策をとっていた田沼意次が失脚してしまうのです。

田沼意次/wikipediaより引用
鷹揚な田沼時代、戯作者たちは彼の政治をおちょくった作品を自由気ままに発表。
幸せな日々はずっと続くだろうと信じたかったところでしょうが、そうは問屋が卸しませんでした。
寛政元年(1789年)、黄表紙本の挿絵が咎めを受け、過料(罰金)を払うことになった京伝。
同年に恋川春町も幕府から咎められ、急死を遂げています。

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用
死の状況から自害とも囁かれたその最期。
現実を目の前にして不安を覚えたのか、京伝はもう文筆業をやめよう……と弱音を吐きます。
それを思いとどまらせたのが大河『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎でした。
粋な男として生きて
美男で才能に溢れ、金持ち。
おっとりしていて知識も豊か。
粋な江戸っ子らしく、若き日の山東京伝は吉原に繰り出していました。
家にも帰らず遊び呆けることを「流連」(りゅうれん・いいづけ)と呼んだものですが、京伝はまさに流連をしてばかり。
金持ちというけれど、その金は一体どこから来てるいるのか?
そんな疑問が湧いてくるかもしれません。
実家でした。
貧困に苦しみながら生きてきた曲亭馬琴(滝沢馬琴)にとっては、こうした京伝の出自も気に入らなかったのでしょう。
「まともにものの値段も知らない、甘やかされたボンボンだ」
そう憎々しげに書き残しています。
京伝の両親は我が子がかわいいものだから、息子が流連ばかりでも注意しなかったのでしょう。
師匠について習った音楽や絵画。吉原で磨かれていく粋。
かくして芸術と文化に明るい、粋な男の像が形成されてゆきます。
そんな京伝の隣には蔦屋重三郎だけでなく、恋川春町や大田南畝など、当時、文壇のトップである錚々たる面子がおりました。

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用
彼は馬琴のように作家として芸を極めたいというよりも、粋な人生の中に執筆もあるという生き方です。
そこまでしがみつくこともない京伝は、ひとたび意気沮喪してしまったら、周囲が勧めなければ復活が難しいタイプといえます。
人脈あっての文人稼業といえました。
吉原の遊女と恋愛結婚
京伝はとにかくモテました。
二度の結婚は恋愛結婚。
しかも相手は吉原の遊女です。
最初の妻である菊は、元々は菊園という遊女であり、寛政2年(1790年)に結婚しています。
京伝が一人の弟子入りを許可したのもこの頃のことです。
いかにも堅物そうに見えたその青年こそ、曲亭馬琴でした。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
しかし、この馬琴が、京伝の新妻・菊について嫌味たらしく辛辣なことを書き記したため、京伝の弟である山東京山は激怒し、馬琴と揉めに揉めることになります。
いったい馬琴は何を記したのか?
というと、わざわざ「さして美人ではない」と書き出しつつ、彼女の温順な性格と優しさを説き、そして本当に言いたかったであろう次の記述へ続けたのです。
菊が婦人科の病に罹って苦しむと、京伝は吉原に流連してろくに家に帰らない。
別の遊女・玉の井と仲を深めた。
果たしてこれは本当なのか?
馬琴はなかなか結婚できませんでした。
周囲の勧めと生活上の便宜を考慮して、ついに百という女性を妻としましたが、これがいわゆる悪妻。
見た目がよろしくないのはさておき、ともかく夫の教養との格差に苛立ち、何をするにも憎まれ口ばかり叩くような女性だったのです。
馬琴は、師匠で遊び人の京伝に対し、かなり歪んだ嫉妬心を抱いていたのでしょう。
まさに江戸後期の「リア充爆発しやがれ」でした。
書画会は江戸のインフルエンサービジネス
寛政3年(1791年)を迎えると【寛政の改革】による苛烈な処罰が、筆をとり続けていた山東京伝にふりかかります。
洒落本三部を出版したところ、質素倹約、文武奨励のご時世にけしからん、「幕府に背いている」とされました。
幕府としても当時のビッグネームである山東京伝と、版元の蔦屋重三郎を罰することができれば、全体の引き締め効果ありと目論んでいたのかもしれません。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
いわばスケープゴートですね。
結果、山東京伝は五十日間の手錠刑を喰らい、そのニュースは、江戸中の子どもまでもが知るほどの一大事となりました。
温純気弱な京伝は、これですっかり参ってしまいます。
やる気を喪失させる京伝に代わり代筆を請け負ったのが、自宅が洪水に見舞われ、京伝宅に入り浸っていた馬琴でした。
寛政4年(1792年)には、京伝も蔦屋重三郎に馬琴を手代として勧めています。
京伝は、このころから筆だけではない稼ぎ方も考えるようになりました。
いったいどんな稼ぎ方なのか?
というと【書画会】です。
江戸時代の“インフルエンサービジネス”だと思ってください。
カリスマとして知られる当時の著名な文人たちがイベントを開き、特別感を伴った書や画を揮毫し、ファンに売却するのです。
同時に、豪華な食事も振る舞われ、客であるファンにとっては粋でいなせでワクワクするイベントでした。
ちなみに京伝と正反対の性格と言える馬琴は、この【書画会】を屈辱的に捉えていたようで、生活苦に追い詰めに追い詰められ、七十を過ぎてからようやく開催しております。
銀座に「京屋伝蔵店」をオープン
寛政5年(1793年)になると、山東京伝は、銀座に「京屋伝蔵店」を開きます。
これまた、ファッションブランドや美容品ブランドを立ち上げる、現代のインフルエンサービジネスと似ているかもしれません。
京伝は、自身のセンスでアイテムを仕入れ、広報を展開させ、トレンドを追いたい江戸っ子たちが店に出入りするよう営業しました。

こうして新たな事業を始めたころ、妻が婦人科の病気で亡くなってしまいます。
前述の通り、馬琴は妻の病苦に耐えきれず京伝は吉原に流連していたと書いておりますが、その真偽は保留しておいたほうがよいでしょう。
京伝は妻に愛情深い夫でした。
二度目の妻との交際時期も、菊の闘病期間と重なっていたとは思えません。
菊との別離が契機となったのか。
寛政6年(1794年)頃から、京伝は潤筆料(原稿料)を取るようになり、創作意欲については商いへ傾けていたように思えます。
商売は軌道に乗って、かなりの蓄えができていました。
寛政9年(1797年)には、玉の井という二十歳の遊女と深く馴染むようになります。
先妻の喪もあけて数年経過し、新たな恋が芽生えてもおかしくない頃です。三年後の寛政12年(1800年)に京伝は玉の井を妻に迎えました。
もとの名を百合という彼女は苦労人でした。子のない夫妻は百合の弟を養子とします。
しかし文化3年(1804年)、江戸の大火で土蔵のみを残し、店が焼けてしまいます。
それでも焼け跡でどうにか商いをする京伝――そんな彼に打撃を与える人物が登場します。
あの男、曲亭馬琴でした。
京伝vs馬琴の因縁
苦労人で堅物。
利害ありきで結婚した妻・百とは全く性格が一致しない。
一人息子の宗伯は病弱で癇癪持ち。
本人の性格に難がありすぎて友達もろくにできない。
そんな陰キャ非リア充で、当時の文人王が、曲亭馬琴でした。
武家育ちの馬琴のお堅い気質は、田沼時代が終わり、その後、迎えた世相に一致したのでしょう。
よくいえば教訓がある。悪く言えば説教くさい。
馬琴は漢籍教養が豊かでした。
江戸時代前半の日本人は、明代の通俗小説の類が読み解けませんでした。文法が新しすぎて理解に苦しんだのですが、この頃になると読みこなせるようになっています。
その結果、江戸後期、日本では明代文化のブームが起きます。
唐代あたりまでの中国文学は馴染みがありすぎ、一方で、明代となると新鮮で最新トレンドといえたのです。
馬琴はこうした漢籍教養のインプットが凄まじかった。
派手なアクションや展開のある通俗小説を見事に日本風に翻案し、すさまじいパワーで創作を手がけていったのです。
中でも【読本(よみほん)】は大得意で、文化5年(1808年)に発行した『椿説弓張月』は、スマッシュヒットとなります。

葛飾北斎の挿絵が入った曲亭馬琴『椿説弓張月』( 大弓を引く源為朝)/wikipediaより引用
京伝にも漢籍教養はあります。
『忠臣水滸伝』は漢籍教養と忠義を示す当時らしい読本といえます。
文人として作品で勝ったならばそれでよいと思いたくなりますが、馬琴は粘着質でした。
『夢想兵衛胡蝶物語』において、遊女を妻にすることはけしからんと書いたのです。
まるで京伝と百合へのあてつけ。
このしつこい「リア充爆発しろ」攻撃には、京伝より弟の京山が「お前を迎えたのは兄貴だろ、この恩知らずが!」と怒り狂っていたとか。
繰り返しますが、馬琴はしつこい。
当然、京山のことも嫌い、彼の作品に挿絵を描いた歌川国芳まで貶しています。
「京山と猫の本なんて出しやがって。錦絵以外は大したことがない奴だ」
敵を作りやすい馬琴に問題はあり、京伝のせいでないところは強調しておきたいと思います。
ただしこのころとなると、作家としての重要性という点では、馬琴に追いつかれつつあったことは確かです。
『骨董集』と“討死”を遂げる
そんな馬琴は、京伝が新作となる考証随筆を執筆しているとかぎつけると、畳み掛けるように自身が同じテーマの『燕石雑志』を出します。速筆の馬琴だからこそできたことでした。
それに遅れて文化12年(1815年)、京伝による『骨董集』が出版されます。
これまで得た知識の集大成ともいえる考証随筆でした。その確かさやデザインセンスは、馬琴を上回るものといえる。
馬琴はそんな京伝について、「こう語るものがいる」として書き記しています。
京伝は『骨董集』と共に討死をしたのだ、と。
実は『骨董集』執筆から、京伝は半身の痛みをおぼえ、湯治をするもはかばかしくありません。
京山の助力を得てやっと書いたのであり、『骨董集』続刊も書こうと準備をしていた、文化13年(1816年)、胸の痛みを訴えます。
妻・百合と弟・京山が医者を呼ぶも手遅れ……。
享年55。
なんと京伝は、死の6時間前まで創作をしていたのでした。
京山は、そんな兄の遺志を継ぎ、遺稿を出版します。
百合は夫の死後、精神を病み、ついには京山によって物置に監禁されてしまいます。百合は泣き喚き、叫び続けていました。
そして文化15年(1818年)正月、夫から遅れること一年あまりで亡くなりました。
文政2年(1819年)、因縁の馬琴は『伊波伝毛乃記』という評伝を出版しています。
「いわでものき」(言わないでもいいもの記録)というタイトルが付けられたその一冊、馬琴作ということからも、その内容は全て信じない方がよいものかと思います。
というのも、この本の中で馬琴は「京伝の葬儀に参列した」と書いているのですが、真実ではなく、息子の宗伯が参列して彼自身は欠席していました。
山東京伝と、彼を敵視していた曲亭馬琴は、死後その差が開いたといえます。
人間性に難がありすぎた馬琴は、孤独だからこそ自身の創作に集中できたとも言える。
一方で山東京伝は江戸のインフルエンサーであり、パリピであり、成功した商人です。明るく陽気で皆に好かれたものの、その華やぎは瞬間性を帯びていて長く残るものではなかったのでしょう。
なまじ時代とマッチしすぎたために、その後の影が薄くなったともいえる山東京伝。
しかし、いざ映像化するとなると、彼ほど“映える”人物もそうそういないでしょう。
お洒落で、カリスマ性があって、フォロワー数が見るからに多そうな、陽キャイケメンが2025年大河ドラマ『べらぼう』に登場してもおかしくない。
◆『べらぼう』新キャスト9人発表 桐谷健太、片岡鶴太郎ら豪華な顔ぶれ【役柄紹介あり】(→link)
古川雄大さんが演じるとびきりの美丈夫インフルエンサーの姿を、楽しみに待ちましょう。
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【参考文献】
小池藤五郎『山東京伝』(→amazon)
小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』(→amazon)
他





