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【山東京伝】
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粋な男として生きて
美男で才能に溢れ、金持ち。
おっとりしていて知識も豊か。
粋な江戸っ子らしく、若き日の山東京伝は吉原に繰り出していました。
家にも帰らず遊び呆けることを「流連」(りゅうれん・いいづけ)と呼んだものですが、京伝はまさに流連をしてばかり。
金持ちというけれど、その金は一体どこから来てるいるのか?
そんな疑問が湧いてくるかもしれません。
実家でした。
貧困に苦しみながら生きてきた曲亭馬琴(滝沢馬琴)にとっては、こうした京伝の出自も気に入らなかったのでしょう。
「まともにものの値段も知らない、甘やかされたボンボンだ」
そう憎々しげに書き残しています。
京伝の両親は我が子がかわいいものだから、息子が流連ばかりでも注意しなかったのでしょう。
師匠について習った音楽や絵画。吉原で磨かれていく粋。
かくして芸術と文化に明るい、粋な男の像が形成されてゆきます。
そんな京伝の隣には蔦屋重三郎だけでなく、恋川春町や大田南畝など、当時、文壇のトップである錚々たる面子がおりました。
大田南畝は狂歌師であり武士であり「武士の鬱屈あるある」を狂詩に載せて大ヒット!
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彼は馬琴のように作家として芸を極めたいというよりも、粋な人生の中に執筆もあるという生き方です。
そこまでしがみつくこともない京伝は、ひとたび意気沮喪してしまったら、周囲が勧めなければ復活が難しいタイプといえます。
人脈あっての文人稼業といえました。
吉原の遊女と恋愛結婚
京伝はとにかくモテました。
二度の結婚は恋愛結婚。
しかも相手は吉原の遊女です。
最初の妻である菊は、元々は菊園という遊女であり、寛政2年(1790年)に結婚しています。
京伝が一人の弟子入りを許可したのもこの頃のことです。
いかにも堅物そうに見えたその青年こそ、曲亭馬琴でした。
しかし、この馬琴が、京伝の新妻・菊について嫌味たらしく辛辣なことを書き記したため、京伝の弟である山東京山は激怒し、馬琴と揉めに揉めることになります。
いったい馬琴は何を記したのか?
というと、わざわざ「さして美人ではない」と書き出しつつ、彼女の温順な性格と優しさを説き、そして本当に言いたかったであろう次の記述へ続けたのです。
菊が婦人科の病に罹って苦しむと、京伝は吉原に流連してろくに家に帰らない。
別の遊女・玉の井と仲を深めた。
果たしてこれは本当なのか?
馬琴はなかなか結婚できませんでした。周囲の勧めと生活上の便宜を考慮して、ついに百という女性を妻としました。
これがいわゆる悪妻でした。
見た目がよろしくないのはさておき、ともかく夫の教養との格差に苛立ち、何をするにも憎まれ口ばかり叩くような女性だったのです。
馬琴は、師匠で遊び人の京伝に対し、かなり歪んだ嫉妬心を抱いていたのでしょう。
まさに江戸後期の「リア充爆発しやがれ」でした。
書画会は江戸のインフルエンサービジネス
寛政3年(1791年)を迎えると【寛政の改革】による苛烈な処罰が、筆をとり続けていた山東京伝にふりかかります。
洒落本三部を出版したところ、質素倹約、文武奨励のご時世にけしからん、「幕府に背いている」とされました。
幕府としても当時のビッグネームである山東京伝と、版元の蔦屋重三郎を罰することができれば、全体の引き締め効果ありと目論んでいたのかもしれません。
いわばスケープゴートですね。
結果、山東京伝は五十日間の手錠刑を喰らい、そのニュースは、江戸中の子どもまでもが知るほどの一大事となりました。
温純気弱な京伝は、これですっかり参ってしまいます。
やる気を喪失させる京伝に代わり代筆を請け負ったのが、自宅が洪水に見舞われ、京伝宅に入り浸っていた馬琴でした。
寛政4年(1792年)には、京伝も蔦屋重三郎に馬琴を手代として勧めています。
京伝は、このころから筆だけではない稼ぎ方も考えるようになりました。
いったいどんな稼ぎ方なのか?
というと【書画会】です。
江戸時代の“インフルエンサービジネス”だと思ってください。
カリスマとして知られる当時の著名な文人たちがイベントを開き、特別感を伴った書や画を揮毫し、ファンに売却するのです。
同時に、豪華な食事も振る舞われ、客であるファンにとっては粋でいなせでワクワクするイベントでした。
ちなみに京伝と正反対の性格と言える馬琴は、この【書画会】を屈辱的に捉えていたようで、生活苦に追い詰めに追い詰められ、七十を過ぎてからようやく開催しております。
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