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【山東京伝】
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銀座に「京屋伝蔵店」をオープン
寛政5年(1793年)になると、山東京伝は、銀座に「京屋伝蔵店」を開きます。
これまた、ファッションブランドや美容品ブランドを立ち上げる、現代のインフルエンサービジネスと似ているかもしれません。
京伝は、自身のセンスでアイテムを仕入れ、広報を展開させ、トレンドを追いたい江戸っ子たちが店に出入りするよう営業しました。
こうして新たな事業を始めたころ、妻が婦人科の病気で亡くなってしまいます。
前述の通り、馬琴は妻の病苦に耐えきれず京伝は吉原に流連していたと書いておりますが、これは信じて良いか保留したほうがよいでしょう。
京伝は妻に愛情深い夫でした。
二度目の妻との交際時期も、菊の闘病期間と重なっていたとは思えません。
菊との別離が契機となったのか。
寛政6年(1794年)頃から、京伝は潤筆料(原稿料)を取るようになり、創作意欲については商いへ傾けていたように思えます。
商売は軌道に乗って、かなりの蓄えができていました。
寛政9年(1797年)には、玉の井という二十歳の遊女と深く馴染むようになります。
先妻の喪もあけて数年経過し、新たな恋が芽生えてもおかしくない頃です。三年後の寛政12年(1800年)に京伝は玉の井を妻に迎えました。
もとの名を百合という彼女は苦労人でした。子のない夫妻は百合の弟を養子とします。
しかし文化3年(1804年)、江戸の大火で土蔵のみを残し、店が焼けてしまいます。
それでも焼け跡でどうにか商いをする京伝――そんな彼に打撃を与える人物が登場します。
あの男、曲亭馬琴でした。
京伝vs馬琴の因縁
苦労人で堅物。
利害ありきで結婚した妻・百とは全く性格が一致しない。
一人息子の宗伯は病弱で癇癪持ち。
本人の性格に難がありすぎて友達もろくにできない。
そんな陰キャ非リア充で、当時の文人王が、曲亭馬琴でした。
武家育ちの馬琴のお堅い気質は、田沼時代が終わり、その後、迎えた世相に一致したのでしょう。
よくいえば教訓がある。悪く言えば説教くさい。
馬琴は漢籍教養が豊かでした。
江戸時代前半の日本人は、明代の通俗小説の類が読み解けませんでした。文法が新しすぎて理解に苦しんだのですが、この頃になると読みこなせるようになっています。
その結果、江戸後期、日本では明代文化のブームが起きます。
唐代あたりまでの中国文学は馴染みがありすぎ、一方で、明代となると新鮮で最新トレンドといえたのです。
馬琴はこうした漢籍教養のインプットが凄まじかった。
派手なアクションや展開のある通俗小説を見事に日本風に翻案し、すさまじいパワーで創作を手がけていったのです。
中でも【読本(よみほん)】は大得意で、文化5年(1808年)に発行した『椿説弓張月』は、スマッシュヒットとなります。
京伝にも漢籍教養はあります。
『忠臣水滸伝』は漢籍教養と忠義を示す当時らしい読本といえます。
文人として作品で勝ったならばそれでよいと思いたくなりますが、馬琴は粘着質でした。
『夢想兵衛胡蝶物語』において、遊女を妻にすることはけしからんと書いたのです。
まるで京伝と百合へのあてつけ。
このしつこい「リア充爆発しろ」攻撃には、京伝より弟の京山が「お前を迎えたのは兄貴だろ、この恩知らずが!」と怒り狂っていたとか。
繰り返しますが、馬琴はしつこい。
当然、京山のことも嫌い、彼の作品に挿絵を描いた歌川国芳まで貶しています。
「京山と猫の本なんて出しやがって。錦絵以外は大したことがない奴だ」
歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質
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敵を作りやすい馬琴に問題はあり、京伝のせいでないところは強調しておきたいと思います。
ただしこのころとなると、作家としての重要性という点では、馬琴に追いつかれつつあったことは確かです。
『骨董集』と“討死”を遂げる
そんな馬琴は、京伝が新作となる考証随筆を執筆しているとかぎつけると、畳み掛けるように自身が同じテーマの『燕石雑志』を出します。速筆の馬琴だからこそできたことでした。
それに遅れて文化12年(1815年)、京伝による『骨董集』が出版されます。
これまで得た知識の集大成ともいえる考証随筆でした。その確かさやデザインセンスは、馬琴を上回るものといえる。
馬琴はそんな京伝について、「こう語るものがいる」として書き記しています。
京伝は『骨董集』と共に討死をしたのだ、と。
実は『骨董集』執筆から、京伝は半身の痛みをおぼえ、湯治をするもはかばかしくありません。
京山の助力を得てやっと書いたのであり、『骨董集』続刊も書こうと準備をしていた、文化13年(1816年)、胸の痛みを訴えます。
妻・百合と弟・京山が医者を呼ぶも手遅れ……。
享年55。
なんと京伝は、死の6時間前まで創作をしていたのでした。
京山は、そんな兄の遺志を継ぎ、遺稿を出版します。
百合は夫の死後、精神を病み、ついには京山によって物置に監禁されてしまいます。百合は泣き喚き、叫び続けていました。
そして文化15年(1818年)正月、夫から遅れること一年あまりで亡くなりました。
文政2年(1819年)、因縁の馬琴は『伊波伝毛乃記』という評伝を出版しています。
「いわでものき」(言わないでもいいもの記録)というタイトルが付けられたその一冊、馬琴作ということからも、その内容は全て信じない方がよいものかと思います。
というのも、この本の中で馬琴は「京伝の葬儀に参列した」と書いているのですが、真実ではなく、息子の宗伯が参列して彼自身は欠席していました。
山東京伝と、彼を敵視していた曲亭馬琴は、死後その差が開いたといえます。
人間性に難がありすぎた馬琴は、孤独だからこそ自身の創作に集中できたとも言える。
一方で山東京伝は江戸のインフルエンサーであり、パリピであり、成功した商人です。明るく陽気で皆に好かれたものの、その華やぎは瞬間性を帯びていて長く残るものではなかったのでしょう。
なまじ時代とマッチしすぎたために、その後の影が薄くなったともいえる山東京伝。
しかし、いざ映像化するとなると、彼ほど“映える”人物もそうそういないでしょう。
お洒落で、カリスマ性があって、フォロワー数が見るからに多そうな、陽キャイケメンが2025年大河ドラマ『べらぼう』に登場してもおかしくない。
「誰が山東京伝を演じるのだろう?」と今から楽しみでなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから(→link)
【参考文献】
小池藤五郎『山東京伝』(→amazon)
小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』(→amazon)
他