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【初代・西村屋与八】
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「八頭身美女」で売り出す西村屋与八
初代・西村屋与八は、既に江戸でも実力派の絵師と縁がありました。
【美人画】の祖ともいえる鈴木春信。
そして寛政年間(1789ー1901)となると、鳥居清長の【美人画】が人気となります。
【田沼時代】は、浮世絵の歴史においてもターニングポイントといえました。
あの発明王たる平賀源内は【田沼時代】を代表する人物といえます。
彼は印刷技術も高め、版画に用いられる色数をグッと増やした。
鳥居清長の作風は、そんな新時代、そして『雛形若菜の初模様』以降のトレンドにもかなっています。
【大判】の中でのびのびとした肢体を見せる美女たち。鈴木春信のあどけない少女とは異なり、八頭身のスレンダーな姿が特徴です。
必ずしも当時の体型を反映しているわけではなく、あくまで理想。
背景には美麗な名所が描き込まれ、高級感もあふれています。
こんな素敵な着物をみにつけて、イベントを楽しめたら素敵――現代のファッション誌に通じるセンスがそこにはありました。
江戸は男女比がいびつであり、女性を愛でたい需要から【美人画】は売れたとされます。
そんな男性目線だけでなく、おしゃれなファッション誌のグラビア感覚で楽しみたい女性の需要もあったのです。
天明のヴィーナス――のちにそう称されるほど、西村屋与八の売り出す鳥居清長の絵は理想的でした。
それに対し、蔦屋重三郎の売り出した【美人画】の発想は大きく異なったのです。
「会いにいけるアイドル路線」で対抗する蔦屋重三郎
蔦屋重三郎が目をつけた絵師は、デビュー当時、決して知名度が高くはない喜多川歌麿でした。
この喜多川歌麿も【大判】に美人を描いたものの、鳥居清長とは異なります。
そこにあるのはのびやかな肢体ではなく【役者絵】でよくみられる【大首絵】でした。
バストアップとなると、ファッションカタログ路線での機能は落ちます。別路線で対抗してくる意識がそこにはありました。
清長の描くヴィーナスのような近寄りがたい美女ではなく、どこか親しみのもてる、おきゃんな江戸娘の顔がそこにあります。
ツンと澄ました顔ではなく、どこかそのあたりにいそうな庶民的な顔といえます。
しかも、この表情がどこか見る側をドギマギとさせる効果もあります。
たとえば、代表的な『婦女人相十品』より「ポッピンを吹く娘」をご覧ください。
どうしたって、口元に目線がいきませんか?
アイドルがソフトクリームを舐めている写真のような、見る側が思わず色々考えてしまうような……そんな仕掛けがあるのです。
これまでの常識を覆す斬新な【美人画】は飛ぶように売れました。
モデルになるのは、遊女や伝説的な人物、あるいは理想化された像にとどまらず、茶屋の看板娘を取り上げたところ、会いにいけるアイドルとして江戸っ子は熱狂。
追っかけが社会問題になり、幕府が対策を取らねばならぬほど売れたのです。
実は鳥居清長も、喜多川歌麿に対抗して【大首絵】を出すも、いまひとつ売れませんでした。
彼は売れ筋を追うよりも鳥居派として堅実な歩みを選んでいます。【大首絵】で歌麿に対抗したい気持ちがないわけでもない。けれども、どうにも勝てないという挫折感はあった。
しかし初代・西村屋与八も、そう簡単に負けを認めたわけでもありません。
【美人画】では鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし)も売り出しています。
鳥文斎栄之~歌麿のライバルは将軍お気に入りの元旗本絵師~狩野派から浮世絵へ
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鳥居清長に近いスレンダー美女路線であり、かつ旗本出身で、10代将軍・家治とも絵について語り合ったことが売りでした。
高級路線をとり、歌麿とは別の需要掘り起こしをしております。
この西村屋の経営戦略は現在にまで影響を及ぼしております。
技量でいえば、鳥文斎栄之は喜多川歌麿に大きく劣るわけではありません。
しかし、流通量では差がつきました。
鳥文斎栄之の作品は単価が高めかつ、刷る数が抑制されているため、流通量が少なく、後世でも知名度において差がついてしまったのです。
この【美人画】対決は、浮世絵鑑賞における重要な視点を示すことでしょう。
浮世絵は大勢の人間が関わるものです。
絵師が「こんな絵を描きてェなァ」と思ったところで、版元が首を縦に振らねばできません。
買い手の江戸っ子にせよ、自分たちのセンスと合致しなければ、人気絵師であろうと手を出さないのです。
浮世絵傑作の背後には、アイデアを出し、販売戦略を練る版元の姿がありました。
蔦屋と西村屋の対決は、そんな構造を見せてくれるはずです。
二代目はあの鱗形屋孫兵衛の二男
西村屋与八は【美人画】対決以降、蔦屋重三郎の人生にずっと関わってきます。
最終回までキャスト一覧に表示されても不思議はありません。
それというのも前述の通り二代目も蔦屋と競い合うからです。
しかも、鱗形屋孫兵衛の二男で西村屋の婿養子なのですから、非常に面白い関係ですよね。
江戸時代は、婿により家の存続をはかることはしばしば見られました。
落語で茶化される苦労知らずのアホな若旦那よりも、みどころのある婿を迎えた方が堅実などという話もあったほどです。
父の鱗形屋孫兵衛が没落した後、二男はどんな道を歩んだのか。
江戸一の【地本問屋】の座を手に入れた蔦屋重三郎にどんな想いを抱いているのか。
ドラマにするうえで、ここまで盛り上がる展開もそうそうないように思えます。
しかもこの二代目は、自らも戯作者として筆を執ることもあったとか。
西村屋も、見る目は確かです。
蔦屋重三郎が新たなる【役者絵】として東洲斎写楽を売り出した際、その最大の敵として立ち塞がった歌川豊国を出した版元の一人として、名を連ねています。
歌川豊国の大流行は歴史を塗り替えました。
「歌川派にあらずんば絵師にあらず」
そう言われるほど、歌川派は圧倒的な隆盛を誇るようになり、蔦屋重三郎没後、江戸の出版業に新たなるブームをもたらしています。
蔦屋重三郎が晩年に見出した才能に、十返舎一九がいます。
男二人が旅する「弥次喜多もの」がヒットを飛ばしたのです。
道中記を読み漁る江戸っ子は、旅路で目にする景色も気になり出したことでしょう。
それまでは役者や美人が立つ背景に過ぎなかった風景に着目した【風景画】の需要を嗅ぎ取り、葛飾北斎、歌川広重らを起用して売り出した版元には、西村屋も名を連ねているのです。
江戸の文化はこうした【地本問屋】が鎬を削る中、生まれ育ってゆきました。
西村まさ彦さんが大河ドラマで演じた人物として、徳川家康といえば知らない日本人はまずいないでしょう。
一方で西村屋与八はほぼ無名。
けれども西村屋与八の眼力が世に送り出した作品や作者の名は、教科書に掲載され、耳にしたことがあるはず。
浮世絵にしても、きっと馴染みがあるでしょう。
西村屋与八は名優が演じるに相応しい人物であり、日本文化を築き上げた傑物。
その姿が『べらぼう』でどう描かれるのか、楽しみにしているところです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon)
田中優子『江戸はネットワーク』(→amazon)