天平勝宝元年(749年)2月22日は、日本で初めて黄金が献上された日です。
送り主は陸奥国守・百済王敬福(くだらのこきし きょうふく)。
朝廷に届けられた金900両は、建造中だった奈良の大仏に使われたとされ、その功績により従五位上から従三位へ飛躍的な出世を遂げています。世の中やっぱり金なんすなぁ。
具体的な金山の名前は不明ながら、小田郡(現代の宮城県遠田郡あたり)から産出されました。
東北の金山と言えば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、藤原秀衡が大量の砂金を上総広常に贈っているシーンがありましたね。
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藤原秀衡/wikipediaより引用
初の献上となる749年から、すでに400年以上が経過しており、それだけ東北の金山が全国に知られていたのでしょう。
では一体、どれほどの金脈があったのか?
本記事では、東北金山の歴史を振り返ってみましょう。。
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大ヶ生(おおがゆ)金山 岩手県盛岡市
源頼朝による奥州攻めの際、このあたりに領地を与えられた河村秀清(治承元年=1177年生まれで没年不詳)の子孫が採掘していたといわれています。
ゆえに鎌倉時代には既に発見されていたのでしょう。
それがいつしか忘れ去られ、明治になって再発見。
何回かの経営者変遷を経て金鉱脈が見つかりました。
ピーク時は年間80kgほどの金が出ていたのですが、戦時中に戦争激化のために閉山されてしまい、坑道は湧き水によって水没したといわれています。
掘ればまた出るのかもしれませんが、採算が合うかどうかはビミョーなところでしょう。
玉山(たまやま)金山 岩手県陸前高田市
日本で初めて金が見つかったとされる山の一つです。
朝廷に初めて献上されたという黄金もここから出たものかもしれませんね。
その前の天平年間(729~749年)あたりから、鉱石ではなく砂金の採掘が行われていたようで、東大寺の大仏や中尊寺金色堂にも使われたとされます。
奥州藤原氏は朝廷や宋(当時の中国)にかなりの量の金を献上していて、それは玉山金山から出たものだったとか。
戦国時代に豊臣秀吉の直轄になった後、伊達家の管轄となり、慶長遣欧使節の費用を捻出できるほどの金が採掘されていたそうです。
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伊達政宗/wikipediaより引用
その後は江戸幕府に没収されるのを防ぐため、わざと廃坑に見せかけ、なんて話も。
本当であれば、なんとも政宗の伊達家を彷彿とさせるエピソードですよね。
一応、(1673年)頃から産出量が落ちたとか、大きな落盤事故で千人もの鉱夫が亡くなったとかいわれているので、その辺が閉山の理由かもしれません。
大葛(おおくぞ)鉱山 秋田県大館市
伝説によれば、発見は和銅元年(708年)。
東大寺の仏像や、金閣寺造営の際にも献金したといわれています。
こういう話で東大寺が引き合いに出されるのはテンプレなんですかね。
代々支配人を務めていた荒谷家の記録では、大永元年(1521年)頃に発見されたことになっているのですが……これは荒谷家がこの役目についた年か、もともとあったのとは違う鉱脈が見つかったということでしょうか。
まぁそれはともかく、戦国時代にも採掘が行われ、佐竹家が秋田にやってきてからは、金山の発展が奨励されました。
しかし、南部藩との境界争いの元にもなっています。まぁ、儲かるところが争いの種になるのは、古今東西あるあるな話で、中国地方では石見銀山をめぐって毛利元就や尼子らがバチバチやりあってましたね。
ピーク時は年間44kgの金を算出していながら、いずれ尽きるのが地下資源。
1975年に閉山した後は、1998年に近隣の大葛温泉・比内ベニヤマ荘付近で”大葛金山ふるさと館”がオープンし、鉱山創業中の資料が公開されているそうです。
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