曲亭馬琴

曲亭馬琴/国立国会図書館蔵

江戸時代 べらぼう

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家で日本エンタメの祖なり

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馬琴vs京山~国芳と猫を巻き込んで対立

生来の性格からとにかくトラブルの多い曲亭馬琴

特に京山を相手にした対立は、鈴木牧之まで巻き込み、周囲の者たちにとっては傍迷惑でした。

この争いには人間だけでなく、猫まで巻き込まれてゆきます。

京山は、猫が好きで、同じく猫を愛する絵師・歌川国芳と意気投合しておりました。

歌川国芳

猫と後ろ姿が特徴の『歌川国芳の自画像』/wikipediaより引用

二人はタッグを組み、『朧月猫草紙』はじめ猫作品を世に送り出しております。

この作品はおこまという猫が着物を着て、恋をして、イケメンにゃんこと駆け落ちして、大冒険するという可愛らしい作品です。

このような猫もを人にみたてたジャンルは人気がありました。

にゃんにゃん鳴きながら、猫が恋をして、嫁入りをするさまを描く。そんな少女漫画のような甘ったるい世界を展開します。

しかし、馬琴からすれば「くだらない!」「つまらんもので金儲けを狙うしょうもない奴だ!」となり、京山をさんざん罵倒しております。

挿絵の国芳についても同じく罵倒していました。

「国芳は才能がない! 錦絵以外は大きく落ちる。猫絵なんぞ描きおって!」

国芳が当時の江戸で人気絶頂にあったことを思えば、馬琴は一体何なのか?と思ってしまいます。

国芳は面倒見がよく、大勢の弟子を持ち、人気がありました。

そういう“陽キャ”ぶりも、江戸後期文壇の“陰キャ王”からすれば鼻持ちならなかったのかもしれません。

では、馬琴と国芳は没交渉だったのか?

というと、そうでもないのがまた不可解です。

歌川国芳一門は『南総里見八犬伝』はじめ、馬琴を題材とした名作錦絵を多数発表しています。

馬琴の父は、大きな犬を飼い可愛がっており、猫は嫌いだったとか。

そんな父の代から犬派だからこその『南総里見八犬伝』なのかもしれません。

前述の通り、中国の伝説を用いたから犬が活躍するということも考えられますが、とにかく『南総里見八犬伝』は猫派には厳しい作品でした。

序盤から猫が犬に噛み殺される場面がある。

最後に登場する八犬士・犬村大角は父が化け猫と入れ替わってしまいました。この化け猫討伐を経て、大角は一行に加わり、八犬士が勢揃いします。

化け猫伝説は江戸時代にはすっかりお馴染みの演出とはいえ、犬を司る勇士が猫を倒して揃うのですから、どうにも猫派には冷たい作品に思えなくもありません。

国芳も大角を描く錦絵には、化け猫を殺す場面を描いています。

愛猫家としては辛いのか、仕事と割り切っていたのか、心中は察するほかありませんが。

歌川国芳『曲亭翁精著八犬士随一・犬村大角』/wikipediaより引用

こうなると馬琴は猫派の宿敵のように思えますが、それほど単純な話でもありません。

『南総里見八犬伝』がフィナーレを迎えた天保年間、ますます厳しくなった幕府の出版規制をかいくぐるため、クリエイターたちは猫に頼りました。

歌川国芳は浮世絵に新ジャンル、いわば江戸の猫ミームをもたらしました。

それまで背景にいたり、美人が抱いていた猫を前面に押し出したのです。さらに役者絵や風俗画の人を猫にして描くことで、規制の目をすり抜けたのです。

こうなると、江戸っ子の猫への愛はますます盛り上がります。

馬琴もちゃっかり、過去に出版した猫本『猫児牝忠義合奏』の挿絵を国芳に頼み、再出版したのです。

そんな猫にあふれた江戸に住む馬琴も、実はその誘惑からは逃げ切れておりませんでした。

日記には猫を飼い、名付け、かわいがり、さらには子猫を譲渡する活動が記録されております。

要は、馬琴は隠れ猫派だったのですね。

子猫を譲る時は首輪に鰹節というフードまでつけ、譲渡後も様子を確認していたほどですから、猫保護活動の先人とも言える。

馬琴が嫌いなのはあくまで人間であり、愛猫家の京山までということにしましょう。

 


家存続のために苦労を重ね

天保4年(1833年)、馬琴は右目がかすみ、ついには左目までも視力が低下。

その2年後の天保6年(1835年)、病弱であった息子の宗伯が父に先立ってしまいます。

馬琴は武士としての滝沢家再興という悲願を、宗伯の遺児・太郎に託すことにしましたが、そのためには御家人株を買わねばならず、意に沿わぬ営業金策活動をする羽目に陥ります。

要は金策であり、その手段の一つに馬琴が苦手とする【書画会】もありました。

江戸のクラウドファウンディングともいえるイベントで、料亭に知人、友人、資産家を集め、そこで様々なグッズ販売を行うのです。

例えば、扇子に風呂敷、盃、掛け軸といったもので、そこにサインをしてファンに買ってもらう。

馬琴ほどのネームバリューがあれば、人は集まり、収入も見込める――されど、彼の性格とプライドからすれば心中は複雑でした。

こうしたイベントを開けば、かつて馬琴がコキを下ろしてきた文人や絵師も足を運び、気まずいものがある。

案の定、この知らせを聞いて京山は「ざまあみろ!」と馬鹿にしたとか。

プライドの高い馬琴にとって、金のために頭を下げるなぞ、屈辱そのもの。

それでも孫と滝沢家存続のためにはやるしかありません。

天保10年(1839年)、ついに馬琴は視力を失いました。

彼以外にも江戸時代のクリエイターは、視力を失う人がしばしばおります。

現代ならば目薬や手術で治療できる眼病も、当時はそうではなかったのでしょう。

目を酷使する者にとって業ともいえるものでした。

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