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【武断政治と文治政治】
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「礼儀と人命の尊重」が重視されるように
文治政治のおおまかなスタンスは、
「礼儀と人命の尊重」
といえます。
例えば、家綱時代には大名から人質を取るのをやめています(証人廃止)し、大名が亡くなった際の殉死を禁じました。
・証人廃止
・殉死の禁止
また、この時期になると大名を取り潰して新しい藩主をどこかから連れてくるより、なんとかして家を続けさせるほうが、メリットが大きくなっています。
そのため末期養子が認められました。
読んで字の如く、大名が亡くなる間際になってから跡継ぎとして養子を迎えることです。
家光の時代までは
「戦が起きればいつ死ぬかもわからないのに、大名がいざというときのことも考えずにいただと?そんな不届き者に領民を治める力があるものか! 改易じゃ!」
みたいな感じでした。
家綱時代以降も続く
家綱の時代にはそもそも戦がほぼなくなった上、大地震や火災などによる大名家の被害も増加。
天災等はいくら大名でも回避できません。なんせ江戸城の天守閣さえ燃えてますからね。
まぁ、一番の理由は、家綱自身に子供がいなかったからでしょうけれども、そりゃトップができてないことを大名に強制できないですよね。
文治政治への転換は家綱時代ですが、この方針はずっと続きました。
五代・綱吉が儒学に基づいた政策を取り、六代・徳川家宣が新井白石を重んじたことが大きく影響しています。
学者先生方によっては、「吉宗が武断政治に戻した」とする見方もあるようですね。
享保の改革が行われているからかと思われます。
とはいえ、それ以上は個人の主義主張の話になるので、一般的には大きく気にする必要は無さそうです。
教科書の中身が大きく変わるほどなら別ですけれど。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「文治政治」
文治政治/wikipedia