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【勝川春章】
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歌舞伎の隆盛高まるブロマイド【役者絵】
当時の江戸画壇は、武士の絵である狩野派や、中国由来の南蘋派(なんぴんは)といった画風を継承しながら、文人ネットワークの中で楽しむ状態でした。
いわば風雅な趣味の延長であり、庶民を相手にした商業ベースには乗っていません。
勝川春章が生きたのは、そうした伝統が変わりつつある時代でした。
例えば、歌舞伎人気の高まりにあやかって、狩野派は役者を描き始めています。
昔の日本画を見ていて「どれも似たような顔だな……」と感じてしまったことはありませんか?
平安時代の【引目鉤鼻】はその典型であり、時代がくだって肖像画となると、モデルの顔の特徴が盛り込まれていきますが、それ以外の絵といえば美男美女を様式美で描くものでした。
ネットスラングに「判子絵」という言葉があります。
似たような美形キャラの顔を、判子で押したようにパターン化して描く、マイナスのニュアンスを含むキーワードでしたが、当初の浮世絵は、まさにこの「判子絵」の世界。
客も、決まりきったワンパターンだからこそ安心して買える、そんな状況が続いていました。
しかし、これに異を唱える絵師も現れます。
勝川春章もその一人。
宝暦14年(1764年)あたりから、役者の顔の特徴を取り入れた【役者絵】を発表し始めるのです。
江戸時代に愛されたエンタメといえば、なんといっても筆頭が歌舞伎でしょう。
当時の悪所といえば、男が入り浸るのが遊郭で、女が入り浸るのが歌舞伎座とされ、猥雑さも漂う魅惑の場所とされました。
そんな歌舞伎役者を描くときも、当初は「判子絵」状態だったのですが、勝川春章が一石を投じたのです。
いったい春章はどんな絵を描いたのか? 江戸っ子の心を鷲掴みにした、その一例がこちら。
あまりに斬新な勝川春章の【役者絵】に、江戸っ子たちは度肝を抜かれました。
役者の個性や演技の迫力だけでなく、舞台の熱気まで伝わってくるようだ!
従来の判子絵とは違う斬新な衝撃があり、新作を出せば飛ぶように売れた春章の役者絵は、全部で1,000点以上あるとされます。
役者の顔が迫るような【大首絵】という技法が用いられ、推しの顔がデカデカと躍る【役者絵】に、江戸っ子は夢中になったのです。
こうなるとチャリンチャリンと音が聞こえてきますよね。
古今東西、悪所は莫大な金が動きます。
吉原では何をするにせよ金が落ちる。
歌舞伎では、熱狂的なファンが「推し活」を展開。役者のファッションを真似る。推しカラーを身につける。ブロマイドである【役者絵】は、当然のことながらど真ん中の売れ筋した。
ファンたちは推しの特徴を捉えた【役者絵】を買い漁ってヒット商品が生まれ、勝川派は浮世絵師の中でも一大流派となるのでした。
しかし、ここで一つ考えたいこともあります。
春章は、師匠から【美人画】の技法を会得していました。
「春」という画号には、柔らかな雰囲気だけでなく、花ひらく艶やかさも感じられるでしょう。
立役(たちやく)がキリリと凄む【役者絵】は確かによく売れる。定番だ。
しかし本音を言えば……美人を描きたい!
春章の心の奥底に流れる、そんな欲求を叶えたのが、蔦屋重三郎でした。
まるで夢の世界「青楼美人合姿鏡」
安永5年(1776年)、蔦屋重三郎は、勝川春章と北尾重政という仲良し絵師コンビに“ある絵”を手掛けさせます。
『青楼美人合姿鏡』です。
「青楼」とは漢籍由来である遊郭の雅称であり、吉原にいる美女が見せる姿態を描いた錦絵本です。
高級感があるため、一般に向けて売り出すというより
「遊女がなじみ客に渡した豪華限定本ではないか?」
と目されています。
しかし、これこそ蔦屋重三郎の強みが発揮された画期的な作品でした。
吉原に生まれ育ち、書店「耕書堂」を開いた重三郎。
四季折々の遊郭行事を熟知し、製本販売ルートも身につけ、さらには絵師を探す人脈ネットワークがあればこそ実現した作品だったのです。
おそらく『べらぼう』の劇中でも、なじみ客に書物を渡す遊女や、それをうっとりしながら眺める客の姿が見られることでしょう。
さらに、本書の画期的なところは中身だけでなく
“販売ルートの拡大“
という意味もありました。
版画の強みを活かし、吉原遊郭で話題にすれば次の商機も見えてくる。
やはり勝川春章は『べらぼう』前半を彩る絵師であり、欠かせない……のではありますが、ヤリ手の重三郎が全力でプッシュした【美人画】のエースはあくまで喜多川歌麿です。
喜多川歌麿の美人画は日本一!蔦屋と共に歩んだ浮世絵師は女性をどう描いたか
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リアル路線の大首【役者絵】がこうも売れるのであれば【美人画】はどうか――その発想力と企画力で喜多川歌麿をプロデュースし、押しも押されぬ絵師に育て上げるのです。
江戸の絵師同士を繋ぐネットワークの中心に居たのは蔦屋重三郎。
発想が発想を生み出し、江戸では常に新しい浮世絵が生み出されてゆきました。
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