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【勝川春章】
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「春章一幅直値千金」の肉筆美人画
商業流通の波に乗り始めると、浮世絵師たちの流派も変わってゆきます。
いわばブランドであり、弟子は師匠や流派の作風に近づけることで、堅実な売れ筋路線を狙うこととなります。
蔦屋重三郎のような版元は、当然のことながら売れ筋路線を踏襲することを前提としたことでしょう。
しかし、そのヒットメーカーの祖といえる春章自身は、少々疲れたか、あるいは原点回帰を模索したのか、天明年間には弟子たちに勝川派をゆずり、肉筆美人画に注力するようになります。
勝川派はもはや盤石だ。
己の画風を極めたい。
そんな気持ちの表れかもしれません。
生活にゆとりも生まれ、売れ筋路線を描かずともよくなった浮世絵師は、しばしば肉筆画に注力するものであり、春章もその一人だったのです。
肉筆画は高級路線であり、グレードも高い。
歌麿の庶民的な美人画とは異なり、大名が買い求めて「ほほぅ」と眺めても恥ずかしくない。
春章の肉筆美人画は平戸藩主である松浦静山も所有記録があり、その交流関係が伺えます。
しかし、高級志向であると流通は抑制されてしまう。
【美人画】を手がけた絵師として、春章の知名度が歌麿に遠く及ばないのは、流通数に大差がついていることも一因として考えられます。
技量は文句なしに素晴らしい。
洒落本の『当世女風俗通』にこうあります。
春章一幅値千金
春宵一刻値千金のもじりで、春章の絵一幅は千金に値するという意味です。
弟子たちの成長を見届けた春章。
絵師として満足のいく歳月を過ごせたことでしょう。
寛政4年(1793年)12月8日に世を去りました。
前述の通り、彼の享年は67と50説があるため、生年説が17年も離れてしまっています。
彼を特徴づけた【大首絵】。
特徴を取り入れた描き方。
こうした要素は蔦屋重三郎がプロデュースした喜多川歌麿のみならず、東洲斎写楽の【役者絵】にも引き継がれることになります。
弟子であった葛飾北斎は、浮世絵を代表する伝説の絵師となりました。
しかし、何か引っ掛かりませんか?
そこまで偉大な足跡を残し、著名な弟子たちを持つ巨匠が、なぜここまで影が薄いのか。
春章去りし後、勝川派は消えていった
歴史的に、同じような功績を持っているはずなのに、なぜこうも知名度に差が出るのか。
その要因として挙げられるのが「語り継ぐ後進の有無」でしょう。
近代日本を代表する作家として、夏目漱石が挙げられます。
『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などの名作を記したからこそ、漱石は今なお人気なのだ――と彼自身の作品が優れていることは全く否定しませんが、知名度はそれだけでは決まりません。
漱石には弟子が多く、師匠の顕彰を続けてきたため忘れ去られることなく、語り継がれてきたことも一面としてあります。
勝川春章の場合、この逆といえましょうか。
田沼意次が失意のうちに世を去ったあと、松平定信は弛緩し切った江戸で大鉈を振います。
【寛政の改革】です。
この厳しい規制の目は、江戸っ子がこよなく愛し、かつどこか背徳感のある歌舞伎にも向けられました。
歌舞伎の「江戸三座」こと中村・市村・森田は取り締まりに屈し、ついに興行を中止。
歌舞伎のファンも、業者も、大打撃を受けています。
当然【役者絵】も大打撃。
【役者絵】は歌舞伎座、版元、絵師がタイアップしており、流通ルートは確定しておりました。
タイアップ絵師の最大派閥は勝川派です。
「江戸三座」が興行をとりやめたことで【役者絵】の供給も止まってしまい、さらに勝川派には、このときピンチが襲っておりました。
【役者絵】や【相撲絵】といった売れ筋を手がけていたにも関わらず、いくつも不運が重なり、急速に衰えていったのです。
春朗は葛飾北斎として独自路線に邁進。
春好は中風で右手が麻痺。
春英のみがやっと勝川派を支えていた状態に陥っていました。
東洲斎写楽を売り出せば……
こうなったらネクストブレイク枠の新人を押さえるしかない――。
そこで蔦屋重三郎が見出したのは勝川派の絵師ではなく、能役者の斎藤十郎兵衛でした。役者ならではのセンスがある絵師を東洲斎写楽として売り出したのです。
しかし東洲斎写楽の売り出しは失敗し、失意のうちに蔦屋重三郎は世を去ってしまいます。
では勝川派に勢いは戻ったのか?というと、そうはなりません。
写楽と同時期に売り出された歌川豊国が大ヒットを果たし、新たなる【役者絵】の頂を極めることになります。
豊国は、春章が生み出した写実性を、写楽とは別の方向で高めていました。
写楽が役者の欠点までも強調する一方、豊国は特徴を踏まえつつ、魅力的に高める技術に長けていたのです。
こうなると江戸っ子たちも今度は、推しを最も美しく描く豊国に傾倒。
歌川派は人数が多いだけでなく、売り出し戦略においても勝川派より多彩な対応を取ることができたといえます。
大勢いる絵師の中には【役者絵】以外を得意とする者も出てきたのです。
葛飾北斎に続き、【風景画】を得意とした歌川広重。
文武を強調する世において、勇壮な【武者絵】でブレイクを果たした歌川国芳。
彼らの輝きと個性はあまりに強烈で、江戸を席巻してゆきました。
満月として輝く歌川派の前で勝川派は、星の光のように薄れていくほかありません。
勝川春章の没後に出てきた絵師たちは綺羅星の如く大勢いて、これが春章を霞ませてしまった要因に思えてなりません。
しかし、こうした絵師たちが歩む道を切り拓いた一人として、勝川春章は思い出されるべき一人であることは確かでしょう。
大河ドラマ『べらぼう』をきっかけに、彼の名がまた脚光を浴びることを願ってなりません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon)
田中優子『江戸はネットワーク』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
深光富士男『浮世絵入門』(→amazon)
小林忠/大久保純一『浮世絵鑑賞の基礎知識』(→amazon)
田辺昌子『浮世絵のことば案内』(→amazon)
他