喜多川歌麿

ライバル・鳥文斎栄之の描いた喜多川歌麿/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

喜多川歌麿の美人画は日本一!蔦屋と共に歩んだ浮世絵師は女性をどう描いたか

文化3年(1806年)9月20日は喜多川歌麿の命日です。

美人画で知られる浮世絵師であり、歴史の授業でもお馴染みの存在。

葛飾北斎歌川広重などと並び、江戸時代を代表する浮世絵師の一人です。

浮世絵の【美人画】というと、真っ先に脳裏に浮かぶのが彼の作品であっても不思議はありませんが、では歌麿の事績や人となりはご存知ですか?と問われて即答できる方は少ないのではないでしょうか。

しかし、2025年以降、その状況は激変するかもしれません。

大河ドラマ『べらぼう』で染谷将太さんがキャスティングされたのです。

実はこの歌麿、同作品で主役となる蔦屋重三郎の重要なパートナーであり、彼のおかげで絵師として大成できたと言っても過言ではなく、いざドラマが始まれば重要な役割を任されるでしょう。

浮世絵美人画の最高峰とされる歌麿。

いったい彼はどんな人物で、いかなる生涯を辿ったのか?

蔦屋重三郎との関係と共に振り返ってみましょう。

 

喜多川歌麿は美人画の最高峰

江戸の庶民にとって「浮世絵」は、我々が思うよりずっと身近な存在です。

なんせ蕎麦一杯の値段で買える「娯楽」の一つとされます。

肉筆画はそれなりにお高いものの、歌麿は安い版画が中心。今の感覚で言えば、週刊誌を一冊買ったり、Amazonビデオで動画を一本レンタルするぐらいの手軽さでした。

人気ジャンルともなれば皆が買って爆発的ヒットも見込める。

その中で売れ筋の定番だったのが【美人画】でした。

気軽に手にして、ジックリ眺めることのできる美女の姿は、江戸っ子にとって大切な癒し。

携帯用に作られたコンパクトサイズの作品もあり、手にしてうっとりする当時の人々の姿が今にも浮かんできそうです。

美人画は、現代で言えばグラビアや萌え絵のような存在です。

男性は萌え、女性はオシャレや盛りやモテの参考にする。喜多川歌麿はそのジャンルトップ絵師でした。

彼の作品は、現代においても切手やポスターの図案によく使われていて、日本人であればはっきりとそう認識してなくても、一度は目にしたことがおありでしょう。

『ビードロを吹く女』喜多川歌麿/wikipediaより引用

しかし、です。

ここまで有名な絵師なのに、その生涯はハッキリとはしていません。

あらためて喜多川歌麿の生涯を振り返ってみましょう。

 

生まれも育ちも謎めいた生涯

歌麿の生年は、没年と享年から逆算して1753年(宝暦3年)頃とされています。

出身地も諸説あり、江戸や川越にはじまり、京都、大坂、近江、下野など数多の地域に渡っていて未だに確定していません。

元の名は勇助とされます。

最初は妖怪の絵で知られる浮世絵師・烏山石燕(とりやま せきえん)のもとに入門したとされます。

石燕が語る歌麿は、まだ幼く、コオロギを手のひらに載せてジッと見ている姿です。

そこで絵を学ぶうちに才能が発揮したのでしょう。

明和7年(1770年)、歌麿17歳のとき、北川豊章(きたがわ とよあき)名義で絵入俳書『ちよのはる』に挿絵を一点描きました。

石燕が挿絵の依頼を受け、門人たちに担当させたのです。大小の茄子が三個並ぶ絵でした。

歌麿は様々なジャンルを手掛けていますが、【美人画】ブレイク以前の作品は現存数が少ない。

実はこのころ浮世絵は、大きな転換点を迎えていました。

技術が発展し【錦絵】という派手な色彩作品が登場。それまでの白黒に赤と緑を加える程度だった浮世絵が、一気に華やかになったのです。

この【錦絵】の黎明期にブレイクした【美人画】の名手が鈴木晴信です。

繊細で可憐、リアリティを感じさせる女性の姿は定番ジャンルとなり、さらに8等身の美女を描く鳥居清長は【美人画】絵師の代表格となりました。

この【美人画】にさらなる新機軸を生み出してゆくのが、歌麿と蔦屋重三郎でした。

 

歌麿と蔦屋重三郎の出会い

天明元年(1781年)、「北川」を「喜多川」とし、「歌麿」を名乗るようになった年のことです。

29歳の喜多川歌麿は、33歳の版元・蔦屋重三郎と出会います。

遊郭が軒を連ねる新吉原で寛延3年(1750年)に生まれた彼は、女性の美がどれほど金を生み出すか、目にしながら育ってきました。

20代半ばで『吉原細見』というガイドブックを手掛け、28歳になると独立。

リニューアル版の『吉原細見』でさらに売上を伸ばすと、蔦屋は巨額の富を手にしました。

いわば敏腕プロデューサーであり、敏腕編集者と言ったところでしょうか。

『吉原細見』

元文5年に発行された『吉原細見』/wikipediaより引用

その彼に才能を見込まれた歌麿は、上野忍岡の住居を引き払い、蔦屋の元に住むこととなりました。

二人には、互いに互いの才覚に惹かれ合う、版元と絵師を超えるような濃密な関係が見られます。

この蔦屋は、ちょっとした文人の梁山泊のような感はありました。

当時江戸で流行っていた狂歌サロンが展開される。

新ジャンルである【黄表紙】を始めた恋川春町も出入りする。

歌麿はこの【黄表紙】の挿絵を任されています。

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江戸のトレンドを追うならば、蔦屋は欠かせない存在であり、歌麿も狂歌を詠みつながら流行の文化を吸収していったのでしょう。

いくら才能を認められていようと、歌麿はまだまだ駆け出しで未知数の絵師でした。

それをブレイク前夜の絵師であるとして、蔦屋が狂歌サロンの面々に紹介していったのです。

ここまでお膳立てされたなら、素晴らしく、これまでとは全く異なる絵を仕上げねばならない――そんなプレッシャーすらある中で、歌麿はどう期待に応えていったのか?

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