美人画で知られる浮世絵師であり、歴史の授業でもお馴染みの存在・喜多川歌麿。
葛飾北斎や歌川広重などと並び、江戸時代を代表する浮世絵師の一人です。
浮世絵の【美人画】というと、真っ先に脳裏に浮かぶのが彼の作品であっても不思議はありませんが、では歌麿の事績や人となりはご存知ですか?と問われて即答できる方は少ないのではないでしょうか。
しかし、2025年以降、その状況は激変するでしょう。
ご存知、大河ドラマ『べらぼう』で染谷将太さんが演じているからであります。
今後、蔦屋重三郎の重要なパートナーとなり劇中での活躍が期待されますが、史実でも蔦重のおかげで絵師として大成できたと言っても過言ではない。
そんな歌麿は一体どんな人物で、いかなる生涯を辿ったのか?
蔦屋重三郎との関係と共に振り返ってみましょう。

鳥文斎栄之の描いた喜多川歌麿/wikipediaより引用
喜多川歌麿は美人画の最高峰
江戸の庶民にとって「浮世絵」は、我々が思うよりずっと身近な存在です。
なんせ蕎麦一杯の値段で買える「娯楽」の一つとされます。
肉筆画はそれなりにお高いものの、歌麿は安い版画が中心。今の感覚で言えば、週刊誌を一冊買ったり、Amazonビデオで動画を一本レンタルするぐらいの手軽さでした。
人気ジャンルともなれば皆が買って爆発的ヒットも見込める。
その中で売れ筋の定番だったのが【美人画】でした。
気軽に手にして、ジックリ眺めることのできる美女の姿は、江戸っ子にとって大切な癒し。
携帯用に作られたコンパクトサイズの作品もあり、手にしてうっとりする当時の人々の姿が今にも浮かんできそうです。
美人画は、現代で言えばグラビアや萌え絵のような存在です。
男性は萌え、女性はオシャレや盛りやモテの参考にする。喜多川歌麿はそのジャンルトップ絵師でした。
彼の作品は、現代においても切手やポスターの図案によく使われていて、日本人であればはっきりとそう認識してなくても、一度は目にしたことがおありでしょう。

『ビードロを吹く女』喜多川歌麿/wikipediaより引用
しかし、です。
ここまで有名な絵師なのに、その生涯はハッキリとはしていません。
あらためて喜多川歌麿の生涯を振り返ってみましょう。
生まれも育ちも謎めいた生涯
歌麿の生年は、没年と享年から逆算して1753年(宝暦3年)頃とされています。
出身地も諸説あり、江戸や川越にはじまり、京都、大坂、近江、下野など数多の地域に渡っていて未だに確定していません。
元の名は勇助とされます。
最初は妖怪の絵で知られる浮世絵師・烏山石燕(とりやま せきえん)のもとに入門したとされます。

烏山石燕『画図百鬼夜行』/wikipediaより引用
石燕が語る歌麿は、まだ幼く、コオロギを手のひらに載せてジッと見ている姿です。
そこで絵を学ぶうちに才能が発揮したのでしょう。
明和7年(1770年)、歌麿17歳のとき、北川豊章(きたがわ とよあき)名義で絵入俳書『ちよのはる』に挿絵を一点描きました。
石燕が挿絵の依頼を受け、門人たちに担当させたのです。大小の茄子が三個並ぶ絵でした。
歌麿は様々なジャンルを手掛けていますが、【美人画】ブレイク以前の作品は現存数が少ない。
実はこのころ浮世絵は、大きな転換点を迎えていました。
技術が発展し【錦絵】という派手な色彩作品が登場。それまでの白黒に赤と緑を加える程度だった浮世絵が、一気に華やかになったのです。
この【錦絵】の黎明期にブレイクした【美人画】の名手が鈴木晴信です。
繊細で可憐、リアリティを感じさせる女性の姿は定番ジャンルとなり、さらに8等身の美女を描く鳥居清長は【美人画】絵師の代表格となりました。
この【美人画】にさらなる新機軸を生み出してゆくのが、歌麿と蔦屋重三郎でした。
歌麿と蔦屋重三郎の出会い
天明元年(1781年)、「北川」を「喜多川」とし、「歌麿」を名乗るようになった年のことです。
29歳の喜多川歌麿は、33歳の版元・蔦屋重三郎と出会います。
遊郭が軒を連ねる新吉原で寛延3年(1750年)に生まれた彼は、女性の美がどれほど金を生み出すか、目にしながら育ってきました。
20代半ばで『吉原細見』というガイドブックを手掛け、28歳になると独立。
リニューアル版の『吉原細見』でさらに売上を伸ばすと、蔦屋は巨額の富を手にしました。
いわば敏腕プロデューサーであり、敏腕編集者と言ったところでしょうか。

元文5年に発行された『吉原細見』/wikipediaより引用
その彼に才能を見込まれた歌麿は、上野忍岡の住居を引き払い、蔦屋の元に住むこととなりました。
二人には、互いに互いの才覚に惹かれ合う、版元と絵師を超えるような濃密な関係が見られます。
この蔦屋は、ちょっとした文人の梁山泊のような感はありました。
当時江戸で流行っていた狂歌サロンが展開される。
新ジャンルである【黄表紙】を始めた恋川春町も出入りする。

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用
歌麿はこの【黄表紙】の挿絵を任されています。
江戸のトレンドを追うならば、蔦屋は欠かせない存在であり、歌麿も狂歌を詠みつながら流行の文化を吸収していったのでしょう。
いくら才能を認められていようと、歌麿はまだまだ駆け出しで未知数の絵師でした。
それをブレイク前夜の絵師であるとして、蔦屋が狂歌サロンの面々に紹介していったのです。
ここまでお膳立てされたなら、素晴らしく、これまでとは全く異なる絵を仕上げねばならない――そんなプレッシャーすらある中で、歌麿はどう期待に応えていったのか?
大首美人画という新境地
鈴木晴信にせよ、鳥居清長にせよ、それまでの【美人画】は清楚な立ち姿が魅力。
すらりとした肢体を包み込む衣装の美しさやポーズまで含めて愛でるものでした。
一方、喜多川歌麿は、寛政2年から3年(1790~91年)にかけて、【大首美人画】を世に送り出します。
要するにバストアップの美人画です。
髪の生え際や瞳まで細かく見えるほどのアップ、それぞれの個性まで描き分けれていた【美人画】に、江戸っ子たちは魅了されました。
背景をあえて省いているため、美人の顔それだけが迫り来るような美しさがある。
胸をドキドキさせるような斬新さ――その代表的作品が『寛政三美人』でしょう。

喜多川歌麿『寛政三美人』/wikipediaより引用
寛政5年(1793年)頃のこの作品は、実在する美人をモデルにしています。
伝説の美女。
架空の美女。
あるいは吉原の中にいる美女。
こうした題材は歌麿以前にもありました。
この寛政三美人は、江戸の街に実在する看板娘をモデルにするという非常に画期的なものでした。
いわば現代の「会いに行けるアイドルグラビア」であり、女性たちは細かく描き分けられていて、個性や性格まで伝わってくる。
こうなると「おめぇさんは誰に一番萌えるかい?」と加熱するのは世の常でしょう。
「おひさとおきた、どっちの推しが勝つんでェ!」
当時の江戸っ子はそう過熱しました。
江戸の推し活仕掛け人
寛政三美人はその後、どの店に誰がいるか特定され、野次馬やファンが押しかけることに……。
面白いのは女性たちのリアクションでしょう。
難波屋のおきたは愛嬌たっぷりだったはずなのに、いつしか高慢になり、自分で茶を出さなくなった。
これに怒ったファンが汚物を店先にぶちまけたものの、かえって人気が沸騰したとか。
高島屋のおひさは、1500両もの大金で豪商が見受けしたいと持ちかけたけれど、断ったとか。
そんなスキャンダルが囁かれるほど、江戸の推し活は沸騰したのです。
この江戸推し活の背後には、仕掛け人である喜多川歌麿がいます。
当時40歳ほどの歌麿は、10代半ばのフレッシュな美少女の接客を受け、「これでェ!」と閃くものがあったのでしょう。
化粧をたっぷりして着飾った遊女にはない、初々しさがいい――そう歌麿が思ったところで、版元が「うん」とGOサイン(資金)を出さなければ話は進みません。
蔦屋重三郎も「それはいいねェ」と承諾したのでしょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
『べらぼう』では、この三美人を誰が演じるのか、非常に盛り上がりそうな話です。
しかし、当時の幕府にしてみれば「けしからん!」となる内容。
江戸っ子がアイドルの推し活ばかりかまけていてどうするのか……として、あえなく処罰の対象となってしまいました。
そこで歌麿と蔦屋が講じた抜け道が【判じ絵】でした。
名前は書かず、それとなくわかる謎解きモチーフの絵を描きこむことで、幕府の規制を潜り抜けたのです。
当時の幕府は、田沼意次の自由な時代から、松平定信によるがんじがらめの時代へ。
クリエイターたちは、技法やテーマを凝らして、新たな作品づくりに挑戦していったのでした。
歌麿の描く女のリアル
それにしても、なぜ喜多川歌麿の【美人画】が圧倒的人気を誇ったのか?
当時の江戸っ子には最も美しいと思われたから?
否。
彼の作品の大きな特徴は、キラキラした女性ばかりでなく、リアルな姿も浮かび上がらせたことでしょう。
その一例が『北国五色墨(ほっこくごしきずみ)』です。
『北国五色墨』※5枚の絵からなるシリーズ作品でラインナップは以下の通り
「おいらん」
「芸妓」
「てっぽう」
「川岸」
「切の娘」
歌麿は、庶民では顔を拝むことすらできない吉原の名物遊女(おいらん・芸妓)と同時に、下層遊女(てっぽう・川岸・切の娘)の姿も描きました。
例えば『北国五色墨』のうち「切の娘」に描かれているのは、手紙を手にして微笑むまだあどけない遊女。
しかし「切の娘」とは狭い部屋で客を取る最下層の遊女であり、これからの人生で彼女がその無邪気さを失っていくのでは……という実に生々しい様を連想させます。
「川岸」も同じく最下層の遊女を描いています。
胸をはだけ、ふてぶてしい顔で楊枝をくわえた遊女には、もはや夢をみるような表情はなく、挑むような強気の顔。
「てっぽう」は、当たれば死ぬ、あるいは“あっという間に終わる”ことから、そう呼ばれる遊女。
梅毒に罹患していてもおかしくない最下層で高年齢の遊女であり、だぶついた肉、垂れた乳房、疲れ切った顔が印象的です。
いかがでしょう?
美しい女性だけでなく、とにかく生々しいまでの様子が描かれる。
言ってみれば非常に挑戦的な画題ですが、歌麿が手がければ売れることから、こうした作品も残されたのでしょう。
歌麿は、浮世絵師であるからには【枕絵】や【春画】も残されています。
有名な作品としては『歌まくら』があります(検索結果→link)。
確かに、そこには行為中の男女が描かれてはいるのですが、扇情的というよりどこか静謐であり、この題材でこんな画風もあるのかと当惑させる作品です。
寛政の規制の中で描き続けたが
寛政9年(1797年)、蔦屋重三郎が亡くなりました。
蔦屋に対する歌麿の心情はなかなか複雑でした。
【役者絵】のエースとして東洲斎写楽が大々的に売り出された時には、歌麿からは嫉妬心のようなものもうかがえたものです。

東洲斎写楽『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』/wikipediaより引用
歌麿にせよ、こうも売れてしまうと、他の版元からの仕事も手掛けていたわけで、若い頃ほど近い距離ではなかったのでしょう。
それでも自分を売り出した唯一無二のパートナーであり、理解者でした。喪失感があったことは確かです。
そして世の中はますます規制が強化されてゆきます。
歌麿得意の実在する美人を描く絵は、まず名入れが禁止されました。
誰を描いたか、絵で示す謎解き形式【判じ絵】で規制を潜ろうとするも、この手まで幕府は禁じてしまいます。
そして寛政12年(1800年)には、喜多川歌麿が得意としてきた【大首絵】まで禁止となりました。彼の個性は規制に封じられてゆくのです。
とはいえ、工夫しつつ描き続けるしかない歌麿は、日常に密着した絵を手掛けます。
穏やかで微笑ましく、かつてのようなスキャンダラスさはないけれど、十分に魅力はある――いずれの版元も歌麿の作品ならば、と引き受け、実際売れ行きも上々でした。
多くのクリエイターたちが筆を置き、あるいは不可解な死すら遂げる中、歌麿は上手に描き続けた特別な超一流の絵師と言えるでしょう。
【美人画】の頂点を極めたとも言える。
しかし、どんな作家も全盛期を過ぎれば翳りが見えてくるもので……。
寛政年間末期頃になると、かつての勢いは感じられない、焼き直しのような作品が増えてゆくのです。
歌麿の名声と技量ならば、一定数の需要は見込める。
けれども蔦屋と組んで一世を風靡したころの勢いはない。
江戸の雰囲気そのものも変わりつつありました。
あれほど憎かった松平定信の改革も、それが続いていくうちに江戸っ子の気質すら変えてしまい、ギスギスとした世の中は、歌麿の華麗な世界とは食い違ってゆきました。
とはいえ、まさか自分が処罰されるとは思ってもみなかったでしょう。
今まで工夫を凝らし、なんとか規制の目を潜り抜けてきた歌麿。
改革が始まって十年以上経過し、慣れて油断していたのか……。
もはや絵師・歌麿は終わる
文化元年(1804年)5月、喜多川歌麿は大判三昧続の【歴史画】である『太閤五妻洛東遊観之図』を完成させました。
豊臣秀吉による【醍醐の花見】を題材にした作品で、北政所、淀の方はじめ、美しい妻妾たちが太閤の周りに侍る華麗な絵です。

太閤五妻洛東遊観之図/wikipediaより引用
しかし、幕府は織田信長・豊臣秀吉時代以降の人物を“実名で描く絵”を禁じていました。
逆に言えば、その程度の罪で、彼は「手鎖50日」もの刑罰を受けてしまうのです。
歌麿としては、上方発で江戸に到達した『絵本太閤記』ブームに乗じただけのものでした。何より今までもっと際どい絵を手掛けてきてもいます。
いったい何がそんなに幕府を怒らせたのか?
確かに禁制には反していますが、上方発の豊臣贔屓がそれほど疎ましかったのか。あるいは多くの妾を持つ徳川家斉の批判と見なされたのか。
50歳を超えたベテラン絵師にとって、筆を持てぬこの刑罰は精神に大打撃をもたらします。
もはや絵師歌麿は終わる――
そう嗅ぎつけた版元たちは、こぞって彼に作品の依頼を持ちかけました。それほどまでに歌麿人気は確たるものがありました。
手鎖の刑罰を受けた歌麿は、衰えた力で筆を握りつつ、作品を描き続けます。
そして処罰から2年後の1806年(文化3年)、その命を終えました。
享年54。
外国人コレクターが買い漁り
約60年後――明治維新を迎えた日本では、世の転変のため商売が立ちいかなくなる者も数多く出ました。
彼らは溜め込んだ家財道具を売り、その日をしのぐことも珍しくありません。
そんな文物の中に浮世絵も含まれていました。
吉田金兵衛という商人がいました。
彼の元へ来て、驚くほどの高値で歌麿ばかりをまとめ買いしていく外国人がいました。
次第に噂になります。
「歌麿の浮世絵を、驚くほど高値で買い取る異人がいるらしい」
その名は「弁慶さん」で、住まいは横浜なれど、交通費をかけて売りに行ってもお釣りがくるほど儲かる。
歌麿の絵を集めろ!
とばかりに、その名を聞いた人々は歌麿の絵を集め、「弁慶さん」こと英国人フランシス・ブリンクリーに会いに行き、一大コレクションが生まれました。
アメリカの富豪であるウィリアムとジョンのスポルディング兄弟も、歌麿の絵を熱心に求めました。
このスポルディングコレクションは細心の注意を払っての保管がされており、退色しやすい露草染料まで保管に成功しています。
日本人にとっては一大ジャンルとして定着したためか、かえって新鮮味に欠けてしまったであろう歌麿の絵。
海外にしてみれば真逆、魅惑の世界です。
神秘的な微笑み。
日常を送る母子像。
哲学的で謎めいた春画。
歌麿の作品に対するそんな驚きは、蔦屋重三郎のプロデュース力が世界規模でも通じたといえるのかもしれません。
蔦屋重三郎が世に送り出した浮世絵師の中でも重要であり、美人画の最高峰を極めたとされる喜多川歌麿。
彼の魅力が大河ドラマ『べらぼう』で広く知られることを願ってやみません。
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【参考文献】
近藤史人『歌麿 抵抗の美人画』(→amazon)
田辺昌子『もっと知りたい 喜多川歌麿』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
他





