そう問われて最も多くの方に支持されるのは葛飾北斎ではないでしょうか。
何と言ってもインパクトある『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。
子供が見ても、大人が見ても、誰もが目を奪われてそのまま時間が止まってしまいそうな、言葉では説明できない圧倒的な迫力がある。
そんな北斎は生涯に90回以上も引っ越しを繰り返したんだって!――と、最近はそうした一面も注目されていて、何から何まで規格外な絵師というイメージは浸透しつつあるように感じます。
しかし、実際はどんな人物だったのか?
1849年5月10日(嘉永2年4月18日)は葛飾北斎の命日。
彼の事績を辿り、同時期の絵師と比較するなどして、その実像を考察してみましょう。
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爛熟した江戸時代後期に生まれる
葛飾北斎は宝暦10年(1760年)、武蔵国葛飾郡に生まれました。
北斎はどんな幼少期を過ごしたか?他の浮世絵師と同様、詳細は不明ですが、本人は6歳頃からものを描くことに興味があったと振り返っています。
そして安永7年(1778年) 、19歳で浮世絵師の勝川春章に入門。
当時の丁稚奉公の年齢や、他の浮世絵師と比較するとやや遅いタイミングでしょうか。
北斎は、勝川派が得意とし、売れ筋定番の役者絵でデビューを飾りました。
その後は中堅絵師として順調にキャリアを積んでいった北斎。
30歳前後の寛政年間ともなると、自分なりのスタイルを確立し、絵のジャンルも増えてゆき、迎えた寛政5年(1793年)、師匠である勝川春章が没しました。
理由は諸説あって真相は不明ながら、このころ勝川派を離れています。
葛飾北斎の個性と特徴は、ありとあらゆる要素を貪欲に吸収していくことにあります。
勝川派は役者絵に優れており、人気もあります。
しかし北斎はその枠からはみ出してしまったのでしょう。
一門の画風はいわばブランドであり、所属絵師は似ていてこそ価値がある。
版元も、客も、ブランドで判断して作品を求めます。北斎はどうにもその枠におさまりきらなかったようです。
二度の結婚で二男三女に恵まれるが
葛飾北斎の作風は変幻自在でした。
美人画、風景画、狂歌絵本、豪華な摺物、そして春画まで、ありとあらゆる絵を手がけてゆきます。
その間、改名と引っ越しを繰り返しました。
ともかく頑固な性格ながら、衣食住には全くこだわりがない。
薄汚い家の中で、できあいの惣菜を貪りながら絵筆を握り続ける――それが葛飾北斎という絵師でした。
私生活に目を向けると、北斎は二度の結婚で二男三女に恵まれています。
このうち三女の葛飾応為は、性格だけでなく、才能まで父に似ていました。
応為は短い結婚生活から出戻ると、父の傍で絵筆を執っています。美人画については父もかなわないと感心するほどの腕前でした。
北斎は変人、奇人として知られました。
気難しく、あわないとあったら一切交際を拒んだほど。
そんな北斎も、晩年は家庭の不幸に悩まされます。
孫の一人が放蕩もので、その影響からか、江戸を出ていかねばならないほど。
まるで絵の仙人のように生きる変人絵師。それが葛飾北斎です。
絵を描くのは生活のためか、それとも道を悟り昇天するためなのか?
彼はまるで絵筆を握る仙人のようでもありました。
そして嘉永2年(1849年)――。
悲と魂て ゆくきさんじや 夏の原
辞世を残し、世を去りました。
享年90。
絵に取り憑かれた北斎の作品は、このあとも生き続け、世界を飲み込んでゆきます。
では北斎には一体どんな個性があったのか?
同時代に生きた他の絵師――歌川国芳と比較しながら見てまいりましょう。
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