徳川家治/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』眞島秀和が演じる徳川家治~史実ではどんな将軍だったのか?

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お知保を側室とし、家基を授かる

宝暦10年(1760年)5月3日、父である家重が隠居しました。

これにより徳川宗家を継いで将軍宣下を受けると、徳川家治は第十代将軍となります。

家治が将軍になると、やはり問題になります。

正室を迎えて数年が経過しながら、世継ぎがいないことです。

そこで家治は、御中臈であるお知保を寵愛するよう勧められます。

勧めたのは誰か?

というと、宝暦8年(1758年)から評定所に名を連ね、大奥で人気があった田沼意次です。

田沼意次/wikipediaより引用

そして宝暦12年(1762年)、お知保は家治にとって嫡男となる竹千代、のちの徳川家基を産みました。

家治の正室である五十宮が養母として養育し、お知保は老女上座の格式を獲得。

しかし明和8年(1771年)、大河ドラマ『べらぼう』の舞台が始まる一年前に倫子が没すると、万寿姫も母の後を追うようにして亡くなってしまいます。

『べらぼう』第一回冒頭、大奥の場面で将軍・家治の隣にいたのがお知保の方だったのは、そんな事情があるのです。

家治はその後、お品という女性を寵愛し、貞次郎という男子が生まれました。

しかし僅か三ヶ月で夭折。

そんな家治の治世の元で、幕閣の重石だったのは老中・松平武元でした。『べらぼう』では石坂浩二さん演じる白眉毛の老臣ですね。

武元は八代・吉宗、九代・家重の代から勤め上げている古参の重臣であり、家治も、他の幕僚も、彼に睨まれたら縮こまるほかありません。

「西の丸の爺」と呼ばれ、誰もが一目置く存在――幕府重鎮として睨みを効かせているのがこの松平武元でした。

ドラマでも既に幾度も存在感を発揮し、田沼の重しとなっていますが、安永8年(1779年)、武元は最後まで老中首座を勤め上げ、世を去りました。

そして家治のもとで田沼意次は異例の出世を遂げてゆきます。

 


田沼意次を重用する

徳川家重は世を去る前に、徳川家治に対し「田沼意次を重用するように」と言い残したとされます。

心優しく、儒教倫理を重視していた家治は、父への「孝」を重んじ、その言葉を遵守したとしてもおかしくない話です。

意次は明和4年(1767年)に側用人、明和6年(1769年)に老中へ昇進。

安永元年(1772年)には側用人兼老中となっていました。

将軍に最も近い側用人としての役目と、政治の主導権を握る老中としての権勢と、兼ね備えることは極めて異例のことです。

しかも田沼意次は、三河以来の名門出身ではありません。

吉宗の代に江戸へのぼった紀州藩士の家系で足軽出身。

世襲の時代である当時、意次のような立身出世を遂げるには、まず人脈構築が欠かせません。

美男子であり、大奥での人気が高く顔が利き、人当たりは抜群の良さであったという田沼意次ですが、同時にこうした立身出世術は、周囲から苦々しい目で見られかねないものです。

江戸城/wikipediaより引用

意次は、確かに能力が高い。

文武に優れ、吉宗が期待をかけた家治の目から見ても、田沼に政治を任せてよいと思えたのでしょう。

徳川将軍が側用人と共に政権運営を担う体制はすでに確立していましたが、吉宗の代と比べて、どうにも家治は任せきりだと周囲からは思われたようです。

大胆で世の変転を見据えた田沼意次の政治。

それは家治の篤い信頼があってこそであり、周囲からの反発や嫉妬とも隣り合わせのギリギリのラインにいました。

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