欧米ではすでにマスクもなく、過去の病気とされる一方、中国ではロックダウンなど、各国まちまちな対応となっていますが、こんなときに麻疹(ましん・はしか)の話をしても「ほっとけや!」と言われそうですね。
しかし、甘くみたら本当にイケません。
感染力は激しく強く、実は致死率も低くない。
春から初夏にかけて流行る傾向があり、最近は、ワクチンを忘れる方もいらっしゃるようで、日本で猛威をふるう恐れも指摘されております。
では、歴史的に見てはどうなのか、って?
犬公方でお馴染みの徳川綱吉も麻疹で死んだ――そんな見立てもあるほどで、本日は麻疹の歴史を見てみましょう。
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90%以上!とにかく感染力がヤバイ!
まず、麻疹とは?
詳細は前回の記事に譲り、
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綱吉の命も奪った「命定め」は赤面並に怖い?江戸時代に13回も大流行
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今回はスッキリ箇条書きで特徴をマトメさせていただきますね。
ポイント
・症状は発熱と発疹
・一度かかると二度かからない
・致死率、実は高い(日本で0.1% 全世界で3-5%)
・とにかく感染力がヤバイ!
厄介なのが感染力です。
『空気感染』するため凄まじく強力で、麻疹ウイルス保持者と直に接触したり、同室にいただけで会話をしてなくても感染する危険性があります。
もちろん、飛沫や接触でも感染します。
※空気感染と飛沫感染の違い(→昭和大学PDF)
しかもですよ。
免疫を持たない人が麻疹ウイルスにさらされた場合の発症率は、実に90%以上!
むちゃくちゃ高いんです。
だから大流行するワケで、実際に昔は多くの死者を出した病気でした。
では、本題の歴史パートへ行ってみましょう。
摂関政治の終わりは麻疹にあり
麻疹が初めて文献に登場するのは9-10世紀のこと。
ペルシアで活躍した医師アル・ラーズィー(アル=ラジ)による『天然痘と麻疹の書』です。
日本で「これは麻疹で間違いないだろう」とされる第1回目の流行は998年になります。
むろんこれ以前にも流行があったでしょうが、天然痘と症状が似ているため、歴史上、しばしば混同されており正確には把握できません。
日本古来の呼び方からしてそうです。
・天然痘が「もがさ」
・麻疹が「赤もがさ」
現代人から見たら、どっちも似たような印象ですよね。
日本史上、2回目の流行は27年後、1025年のことです。
この流行では、歴史が動きました。
当時、栄華を極めていた藤原道長の六女・藤原嬉子(きしorよしこ)が18才の若さで命を落としてしまったのです。
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彼女は入内しており、後冷泉天皇となる皇子を産むのですが、出産直前に麻疹にかかり、出産からわずか2日後に亡くなったのです。
後冷泉天皇には世継ぎがおらず、その崩御後に
【摂関家とはつながりのない天皇が即位】
して、摂関政治は終焉をむかえます。
もしも嬉子が麻疹で亡くならず複数の皇子を産んでいれば、歴史は大いに変わったでしょう。
麻疹が歴史を動かしたとも言えます。
麻疹は元号をも変える
元号は基本的に天皇の即位で変わります。
しかし過去には、天災や疫病の流行を断ち切るために元号を変えることがありました。
「災異改元」と言います。
おそらく皆さんの想像以上に頻度は高く、過去に災異改元は100回以上行われております。
そのうち
・天然痘が12回
・麻疹が7回
なのですから、近世以前の麻疹がどれだけヤバかったかご理解いただけるでしょう。
一例を挙げますと、鎌倉時代の【建長】8年は、10月5日(新暦:1256年10月24日)に改元されて【康元】となりました。
なぜならこの年の年末4ヶ月間、鎌倉で麻疹が大流行したのです。
6代将軍だった宗尊親王を筆頭に、執権・北条時頼や問注所執事・三善康連などが次々に罹患。
この時、三善康連と北条時頼の娘が死去しております。
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改元はこの麻疹の流行をおさめるために行われたようです。
ちなみに、災異改元の中には「ハレー彗星が来たから」ってパターンもあります。
更にはおめでたいときも元号を変えることがあり「珍しい亀が見つかったから年号かえました!」ってパターンも奈良時代に4回もあります。
奈良時代でも「池の水ぜんぶ抜く」とかしたんですかね。
あれってやたらと巨大亀が出てきますし……。
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