平治物語絵巻/wikipediaより引用

源平

平治の乱ってオモロイじゃん 平清盛vs源義朝以外の争いにも注目

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平安時代に京都で起きた【保元の乱】と【平治の乱】は、戦というより政争に近い性格を持ちます。

特に保元の乱は、皇室の争い(後白河天皇vs崇徳上皇)に源平や藤原摂関家などが絡み合い、超ややこしや。

単純に勝敗を論じるのではなく、流れをシッカリ掴んだ方が結局は理解しやすく、受験生の方は暗記しやすい――と以下の記事を公開させていただきました。

保元の乱がわかる!平安時代版「関が原の戦い」と考えればよいのだ

戦 ...

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図式化するとこんな感じでスッキリなんですけど。

◆保元の乱
敗北
【崇徳上皇方】
藤原頼長
源為義・頼賢・為朝
平忠正

勝利
後白河天皇方】
藤原忠通・信西(しんぜい)
源義朝
平清盛

ひたすら暗記するより、流れを掴んだ方が絶対良いです。だってスグに忘れてしまうから。

一方、平治の乱。
こちらも受験用に図式化すると一見カンタンです。

◆平治の乱

敗北
源義朝
藤原信頼

勝利
平清盛
藤原通憲

学校の授業ですと
「保元の乱で勝った源義朝と平清盛が戦い、今度は清盛が勝ったんだね!」
で終わるかもしれませんが、実態はだいぶ異なります。

というか、ちゃんと流れを掴むと、こんなにドラマチックな乱もそうそうありません。

今回は、平治の乱がいかなる経緯で起き、そしてどうなったか?
少し詳しく見てみましょう。

 

信西、主導権を握る

保元の乱が起きた後、政治の主導権を握ったのは後白河天皇方の藤原信西(しんぜい)でした。
彼の妻が後白河天皇の乳母だったため、実質的には天皇の義父のようなものだったからです。

具体的には、荘園を整理するための法令を出したり、御所の手入れを行ったり、公事・行事の整備や役人の綱紀粛正などにも力を入れました。

そして、これらの政策のためには、治安維持が含まれるため武力が不可欠。
そこで信西は、北面の武士で最大兵力を持つ平清盛を優遇し、活用することにします。

清盛たちにとっても、自分たちの力を示して官位を得たり、朝廷で重い立場になれることは大きなメリットでした。

また、興福寺のシマである大和に平基盛(清盛の次男)が任じられたことで、寺社が強い勢力を持つ同国の切り崩しを図ります。
とはいえ力づくではなく、それまでの権利もある程度は認めながら、懐柔する方針を取りました。

さらに清盛は、大宰大弐(大宰府のNo.2)に就任して日宋貿易に深く関与し、経済力も高めます。
最終的に負けたので清盛には悪人のイメージが根強いですけれども、政治的な能力は歴代の武士の中でも一・二を争うレベル……と言えるのではないでしょうか。

 

交渉の末に守仁親王が即位

こうした清盛の働きに満足したのでしょう。
藤原信西は、息子・成憲と清盛の娘を婚約させ、さらに結び付きを強めます。

また、保元の乱で敗れた藤原頼長の所領を没収し、信西自身がその担当者になるなど、自分たちの経済基盤確保も図りました。

しかし、もともと故・鳥羽法皇が「次の天皇に」と決めたのは、後白河天皇ではなくその皇子・守仁親王です。

あくまで後白河天皇は中継ぎ。
守仁親王が20歳を超えた時点で、その役目は終わっている……と考えたのが、故・鳥羽法皇の寵妃だった美福門院(藤原得子・なりこ)です。

美福門院/wikipediaより引用

彼女は鳥羽法皇の広大な荘園を相続しており、政治的な発言力も強いものでした。
そして、後白河天皇や信西を相手に粘り強い交渉を重ね、保元三年(1158年)、守仁親王が二条天皇として即位します。

第74代 鳥羽天皇(父)
(1107-1123年)

第75代 崇徳天皇(兄)
(1123-1141年)

第76代 近衛天皇(弟)
(1141-1155年)

第77代 後白河天皇(弟)
(1155-1158年)

第78代 二条天皇(後白河天皇の子)
(1158-1165年)

 

「仏と仏との評定」で交渉は成立するが……

藤原信西と美福門院の交渉は、両者が出家の身だったため「仏と仏との評定」と称されました。

というかもともと後白河上皇と二条天皇は親子ですしね。
白河上皇院政をすることも可能だからこそ、この交渉は成立したと思われます。しかし……。

ここで動きがキナ臭くなってきます。
美福門院を始めとする二条天皇の側近が、後白河上皇による院政を拒もうとするのです。

どうしてこうなっちゃうんだろう。
と、ふと考えたときに思い浮かんでくるのが、故・鳥羽法皇による崇徳上皇への異様な冷遇です。

あくまで俗説ですが、崇徳上皇は自分(鳥羽法皇)の子ではない、そんな疑惑から最終的に保元の乱が起きており、新興勢力である武家(源平)が台頭という流れになるのではないかなぁ、と。

いずれにせよ即位した二条天皇と、その親政を図った藤原経宗(つねむね)・惟方(これかた)などの動きが活発となり、局面は次の段階へと向かっていくのでした。

 

あの道長や紫式部・夫の流れを汲んでいる

ここで新しく出てきた藤原経宗と惟方を確認しておきますと……。

藤原経宗は、二条天皇の母方の伯父です。
藤原惟方は、二条天皇の乳兄弟かつ、若い頃から美福門院に仕えておりました。

要は2人とも、臣下の中では特に二条天皇・美福門院に近い人々といえます。

血筋的にはいずれも藤原北家に属していて、経宗は藤原道長の玄孫、惟方のご先祖様は紫式部の夫・藤原宣孝です。
なんだか時代の移り変わりが感じられますね。

紫式部日記絵巻の藤原道長/wikipediaより引用

おそらくや経宗や惟方は
「道長のように娘を入内させて天皇の外祖父となり、実権を握りたい。そのためには院政という仕組みと院の近臣が邪魔だ!」
と考えていたのでしょう。

そうでなくても、鎌足の時代からずっと高官を務めてきた藤原氏の一員なわけですから、一族まとめて返り咲きたいと思うのが自然ですしね。

 

道隆の子孫にあたる信頼が源氏に接近

こうした藤原の思惑に加え、後白河上皇の近臣たちの中にも、藤原信西に反感を持つ者も現れ始めました。

筆頭が藤原信頼です。

彼も藤原北家の一員ですが、経宗や惟方とは違う系統で、藤原道長の兄・藤原道隆の子孫にあたります。
若い頃から昇進しており、後白河天皇が譲位する前からかなりの寵愛を受けていたようです。

また、信頼は比較的視野の広い人物でもありました。
遠戚にあたる奥州藤原氏に娘を嫁がせたり、武士の力を利用して、自らの地位も高めようと考えたりしています。

上記の通り、藤原信西が平家を味方につけていたため、信頼はその対抗馬として、源氏に接近するのです。

 

恩賞が少ない! 源義朝は不平を漏らしていた

一方その頃、ときの源氏当主・源義朝は不満を抱いておりました。

源氏一門に対する【保元の乱】の恩賞が少ない。

平清盛とその兄弟は大和国を含め、四ヶ国の受領(国司の現地責任者)に任じられていたのに対し、源氏では、受領になったのが一人と、他に微々たる官位……という感じです。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用

理由としては、源氏が同時期にいくつも内ゲバをして、中央への政治的アプローチがなかったからでは?
要は自業自得では? とも思ってしまいます。

一族統率のデキる人がいなかったようで、こういうところに平氏との差がありますね。

かくして二条天皇親政派と信頼・義朝は
「信西ブッコロ!!」
という点で一致。

まぁ、信西うんぬんより、その後のことを予め考えていなかったせいで全員敗者になるんですけどね。

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