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【平治の乱】
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道隆の子孫にあたる信頼が源氏に接近
こうした藤原の思惑に加え、後白河上皇の近臣たちの中にも、藤原信西に反感を持つ者も現れ始めました。
筆頭が藤原信頼です。
彼も藤原北家の一員ですが、経宗や惟方とは違う系統で、藤原道長の兄・藤原道隆の子孫にあたります。
若い頃から昇進しており、後白河天皇が譲位する前からかなりの寵愛を受けていたようです。
また、信頼は比較的視野の広い人物でもありました。
遠戚にあたる奥州藤原氏に娘を嫁がせたり、武士の力を利用して、自らの地位も高めようと考えたりしています。
上記の通り、藤原信西が平家を味方につけていたため、信頼はその対抗馬として、源氏に接近するのです。
恩賞が少ない! 源義朝は不平を漏らしていた
一方その頃、ときの源氏当主・源義朝は不満を抱いておりました。
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源氏一門に対する【保元の乱】の恩賞が少ない!
平清盛とその兄弟は大和国を含め、四ヶ国の受領(国司の現地責任者)に任じられていたのに対し、源氏では、受領になったのが一人と、他に微々たる官位……という感じです。
理由としては、源氏が同時期にいくつも内ゲバをして、中央への政治的アプローチがなかったからでは?
要は自業自得では? とも思ってしまいます。
一族統率のデキる人がいなかったようで、こういうところに平氏との差がありますね。
かくして二条天皇親政派と藤原信頼・源義朝は「打倒信西!!」という点で一致。
まぁ、信西うんぬんより、その後のことを予め考えていなかったせいで全員敗者になるんですが……。
熊野詣で清盛の留守中にクーデター
コトは、藤原信西の協力者である平清盛が、熊野詣のため京都から離れていた隙をついて起こされました。
藤原信頼たちは後白河上皇の御所・三条殿を襲って、上皇を皇居に軟禁。続いて信西の屋敷を焼き払うという荒すぎる手段でクーデターを試みるのです。
平治元年(1160年)12月9日。
平治の乱が始まりました。
皇居には当然二条天皇もいるため、上皇と天皇の両方を人質に取ったカタチになりますね。
ちなみにこのとき、後白河上皇の姉・上西門院も巻き込まれています。保元の乱のときもとばっちりをくった人です。
いくら崇徳上皇・後白河上皇両方と同母きょうだいとはいえ、可哀想すぎるやろ(´・ω・`)
信西は一度逃げたものの、見つかって首をはねられました。
なんでも「信西は土中に埋めた箱の中に隠れたが、掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した」そうで。日本史上、他に例を見ない最期でしょう。
信西としては、何日かやり過ごせば京に戻れると思っていたのかもしれません。でなければ、死に物狂いで少しでも遠くへ行こうとしたはずです。
いずれにせよ信西は恨み買いすぎたせいか、京で首を晒されています。
清盛が帰ってきたらどうするか?
信西の排除という最大の目的を達成した藤原信頼は、二条天皇親政派と結んで朝廷の実権を握り、源氏を含めた協力者たちに恩賞を与えました。
なんだか、あまりにスムーズな動きです。こうなると、なぜ彼らが負けたのか、不思議に思いませんか?
もちろんコトはそう単純ではなく、とって大きな問題がありました。
【平清盛が帰ってきたらどうするか?】
源氏にとって清盛と平家はウザったくて仕方ない存在ですが、この件に関してはそもそも京都にいませんでしたし、何をしたわけでもありません。
また、藤原信頼の嫡子・藤原信親が清盛の娘と結婚していたため、信頼にとっては縁戚にあたります。兵力の多さも見逃せませんでした。
そのため、源義平(義朝の長庶子)が「追討すべき!」と進言しても、信頼は首を縦に振りません。
信頼としては、おそらく縁戚関係を利用して、平家も味方に引き込むつもりだったのでしょう。
しかし……。
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