社会に与えた影響が極めて大きいにも関わらず、あまり描かれないことがあります。
お金(経済や貿易)です。
戦国時代だって幕末維新だって、見どころとなるのはやはり合戦や討ち入り、あるいは政争・外交などであり、お金が主役になることは滅多にありません。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、主役はあくまで武士でした。
しかし、経済貿易の話が完全に軽視されていたわけでもなく、本記事で注目したいのが【日宋貿易】です。
そもそもは平清盛が熱心に取り組んでいたもので、ドラマでも「頼朝なんかほっとけや!」とばかりに輸入品に目をキラキラさせているシーンがありました。
あのシーンを見て『何をそんなにウキウキしているんだ?』と疑問に思われた方もいるのではないでしょうか。
日宋貿易は、為政者に莫大な利益をもたらし、鎌倉時代に大きな影響を与えたのです。
では、なぜさほどに儲かったのか?
影響を与えるようになったのか?
古代から続く日中両国の交流を見ながら、日宋貿易を振り返ってみたいと思います。
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倭国:東にある謎の島
東の海の向こうには、島国があるらしい――。
古来、中国大陸では日本のことをそう認識しており、象徴的な伝説がこちらでしょう。
始皇帝が方士・徐福に不老不死の霊薬を求めさせ、三千人の童男童女とともに東の海へ向かった――。
三千人とはやぶさかではありませんが、日本各地で「徐福上陸伝説のある土地」があったり、「子孫だと名乗る一族」などがいたりします。
◆佐賀市観光協会 徐福(→link)
始皇帝の時代から少し進んで、日中の交流を示すシンボルが、福岡で発掘された「漢委奴国王印」と、中国の史書『魏志倭人伝』でしょう。
とりわけ『魏志倭人伝』は、中国の歴史書においても珍しいほど日本の記述が多く、ミステリアスな卑弥呼の存在もあって、多くの方の関心を誘っています。
しかし、これには注意点があります。
魏、呉、蜀の三国に別れた中国では「どの王朝が正統であるか?」を示さねばならない事情がありました。
正史『三国志』は魏のあとを継いだ西晋時代に書かれていて、魏の正統性を示さなければならなかった。
つまり
「距離で言えば呉の方が近いのに、東の倭国は魏との外交を望んだ。これぞまさに正統ですね」
と、魏の価値を高めるため長い記述が用いられたとも言えるんですね。
蜀の旧臣である筆者の陳寿は、そのせいで「魏に贔屓した!」と理不尽な批判を受けておりますが、それはさておき、中国における日本は東瀛(とうえい)とか扶桑(ふそう)という呼び方もありました。
東の方角にある仙人が住む場所という意味です。
要は、航海技術が発展するまで「よくわからない不思議な国」だったのです。
マナー違反の遣隋使
魏晋のあとは南北朝時代へ続き、その後、統一されたのが隋。
ご存知「遣隋使」の始まった時代であり、聖徳太子によるこんな逸話が有名ですね。
日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没処(ひぼっするところ)の天子に致す。
日が登る国の天子から、日が没する国の天子に送る。
地理関係に乗っかるようにして「自分達は上り調子で、そちらは下り坂だ! こちらを下だと思わないように!」と宣言した強気な文面――対等の付き合いを求めたものと学校で習われた方も多いでしょう。
しかし現在、このフレーズだけを切り取って判断するのは「過大評価・拡大解釈」とされ、偏った見方には疑念が呈されています。
受け取った側の煬帝は本当に激怒したのか?
誇張されていないか?
重要なのは、前後を無視してそこだけ切り取り「中国に屈しない日本スゴイ!」と言いたい側の動機や心情を考察することかもしれません。
外交相手にこの文言を用いることが相応しいのかどうかの検討も必要でしょう。
また、朝鮮半島の王朝と比較すると、日本が中国に対して低姿勢とはいえない傾向も指摘されます。
プライドといった精神論ではなく、地続きであるか、海を隔てているかという地理的条件もあり、実質的に隋へ大打撃を与えた点で言えば、高句麗の方が上といえます。
隋の高句麗遠征は失敗し、大打撃を受け、王朝の命運を暗転させました。
朝鮮半島を武力討伐することは危険であると認識させた大きな分岐点です。
遣唐使:唐に近づきたい時代へ
そんな隋は無理が祟ってわずか二代で滅び、唐の時代となりました。
分裂状態から統一された唐は、世界最大の大帝国。
長安には、エキゾチックなイラン系の人々も見られる、それが当然の風景となったのです。
詩聖とされる李白の詩をご覧ください。
李白「少年行」
五陵年少金市東 五陵の年少 金市の東
銀鞍白馬度春風 銀鞍 白馬 春風を度る
落花踏盡遊何處 落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ
笑入胡姫酒肆中 笑って入る胡姫の酒肆の中
この詩には、高級住宅地から銀の鞍を乗せた白馬に颯爽とまたがり、イラン系ホステスのいるクラブへ向かっていく姿が描かれています。
今ならば高級リムジンを乗り回し、ドンペリを出すクラブへ向かうような姿ですね。
その是非はともかく、こんな唐が領土拡大の外交政策を進めたらどうなるか?
懸念を抱いた日本は行動に出ました。
663年【白村江の戦い】――日本は百済と連合を結成し、唐・新羅連合軍と戦ったのです。
唐の進出を食い止めたい日本と半島勢力が協力したわけですが、それ以前に高句麗が隋に大勝利をおさめていましたし、戦略としてはアリだったのでしょう。
しかしこれに敗れ、日本は方針を転換します。
唐と友好関係を築くことにしたのです。
結果、漢籍と仏典が日本に流入し、他にも唐には手本にすべき要素が大量にありました。
長安を手本にして平安京を作ろう。
漢籍を引用して文学作品を作り上げよう。
そんな時代の到来です。
ここで注意したいことがあります。
別に唐を真似ることは屈辱でも何でもありません。
アジアの規範として唐があり、多くの国が一歩でも近づこうと努力していた時代です。
これは洋の東西を問わず、先進的な文明国をいかに模倣して自国を作り上げるか、ということを人類は繰り返してきました。
日本に残る、巨大な唐
しかし、栄枯盛衰もまた歴史の必然。
唐にも翳りが見えてきました。
失墜の原因とされるのが【安史の乱】です。
様々な要因が重なったこの悲劇は日本人にも衝撃を与えます。
※以下は安史の乱の関連記事となります
安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが安史の乱へ 数千万人が死す
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乱によって引き裂かれた玄宗と楊貴妃の悲恋を描いた『長恨歌』は特に愛されました。
紫式部は『源氏物語』の冒頭で、光源氏の母・桐壺更衣の寵愛ぶりを楊貴妃に例えるほど。
と、ここまでは教科書にもあるような美談ですが、それのみならずトンデモ妄想が日本にはありました。
楊貴妃が日本にたどり着き、息絶えたというものです。
そんな伝説のもと、楊貴妃の墓まで作られたのですから驚きでしょう。
◆ 楊貴妃伝説の寺 二尊院(→link)
伝説の美女に対する憧れ自体は問題ありませんが、ここまで来るといかがでしょうか。
中には、
「楊貴妃の正体は日本人! 日本に攻め込もうとする唐の国力を落とすために送り込まれた、ハニートラップだったんだよ!」
なんて妄想まであったとか。
こうした動向の背景にあるのが、どうしても「中国に勝ちたい」という思いでしょう。
【安史の乱】から翳りが見え、ついには滅びてしまった唐。
遣唐使が終わり、唐も滅亡し、日本には国風文化が花開きました。
その結果、どうなったか?
いくつか事例を見てみましょう。
・漢文の読み方
現代の日本でも、国語の時間に漢文の読み方を習います。
日本の文化を学ぶ上では漢籍読解が欠かせないのですから、当然のこと。
ただし、日本の漢文読解は唐代までの“特化型”といえます。
唐時代の後、文法が変化した漢籍となると、読めなくはありませんが手間がかかります。
明清時代における漢籍、ことくだけた表現のものとなると、いっそ現代中国語で読んでしまった方が早いこともしばしばあります。
・日本人の漢詩
上杉謙信、伊達政宗、近藤勇、渋沢栄一、乃木希典……彼らは漢詩を残しました。
こうした日本人の漢詩は、中国から見るとかなり興味深い事象となります。
「すごい、戦国武将も明治人も唐詩のように詠んでいる!」
言葉は常に変化していくものですから、中国でも文法や流行が変わり、時代によって漢詩も変わってゆきます。
しかし日本ではずっと唐で停止していたため、こんな不思議な現象が起こりました。
・「唐様」(からよう)
江戸時代にこんな川柳がありました。
「売家と唐様で書く三代目」
初代が苦労して建てた家を、書道だのなんだの家業以外にうつつを抜かして三代目が売りに出す――そう皮肉ったものですね。
この「唐様」とは、中国風の字体という意味。
具体的にいうと、文徴明が代表です。
しかし文徴明は明代の人物であり、要するに、中国は全部「唐」だと認識していたのです。
ちなみにフォントでおなじみの「明朝体」は、明代が発祥とされます。ややこしいですね。
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・横光三国志
日中の国交が正常化されていない、あるいは活発化していなかった昭和のころ。
『三国志』や『水滸伝』をメディアにするとなると、時代考証がどうしても中途半端になってしまいます。
資料が入手しづらいのですから当然のことであり、衣装や甲冑の様式が唐に近いことがしばしばありました。
例えば人形劇『三国志』の甲冑は唐代の様式です。
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現在でも日本人がぼんやりと「古代中国」とイメージした場合、唐代の形式になることがしばしばありますが、これは日本特有の現象。
唐はあまりに巨大であり、日本人の意識に残り続けたのです。
そして唐が無くなっても、経済的に結ばれた両国の関係は途絶えることはなく、交流は続きました。
いよいよ日宋貿易へと向かいましょう。
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