後に源頼朝に「日本国第一の大天狗」と罵られる後白河法皇/Wikipediaより引用

源平

大天狗と称された後白河天皇 その若かりし頃を振り返ってみました

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久寿二年(1155年)10月26日は、「大天狗」こと後白河天皇が即位した日です。

歴代の天皇の中で、これほどイメージの悪いあだ名がついている方もそうそういないでしょう。

この方の話というと多くが【源平の戦い】と絡むものですが、今回はそれよりも以前、若い頃に注目。

即位前の話で「後白河天皇」と呼ぶのも微妙な話ですけれども、わかりやすさを優先して、この名前で統一させていただきます。

 

10代の頃は「今様」にハマり朝から晩まで歌っていた!?

後白河天皇の父は鳥羽天皇
母は閑院流藤原氏(藤原道長の叔父さんの家)の藤原璋子です。

しかし後白河天皇の幼少期は、ちょうど鳥羽天皇と後白河天皇の兄・崇徳天皇らの確執が起きた時代でもあり、皇位とは離れた立ち位置でした。

10代の頃は色々な意味で相当遊んでいて、「今様」と呼ばれる歌曲を愛し、文字通り朝から晩まで歌っていたとか。
現代だったら皇宮警察の方がノイローゼになりそうですね。オー人事(古い)

また、今様は元々庶民の音楽だったため、御所にも公家だけでなく下々の者まで出入りし、若き日の後白河天皇の遊び相手をしていたとか。

梁塵秘抄りょうじんひしょう』という歌集を編纂させているくらいですから、ハマりようがうかがえるというものです。

『梁塵秘抄 (光文社古典新訳文庫)』(→amazon

現代でも歌が好きな人はたくさんいます。

が、自分で作ったり歌を本格的に学んだり、ましてや他人の歌までマスターしてアルバムを出すなんて人はそうそういませんよね。

それだけハマっていたと言えましょう。

 

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん

「梁塵秘抄」の中で比較的有名な歌だと、こんなのがあります。

「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」
【意訳】遊ぶために、戯れるために生まれてきたかのように遊ぶ子供の声を聞いていると、私の体まで動きそうになる

古語というと堅苦しい感が強いですけれども、内容を見るとちょっと楽しそうというか。
当時の人の茶目っ気がうかがえてくるような気がしませんか?

永観堂内(京都市東山区)にある後白河天皇・今様の碑/photo by mariemon wikipediaより引用

そんな感じで、老若男女どころか身分のこともあまり気にしないような皇子時代の後白河天皇の女性関係は意外(?)と紳士なほうでした。

妃の数自体は、まぁそれなりにおります。
例えば平滋子こと建春門院もその一人で、後白河天皇に寵愛されております。

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もしも「ご乱行」していたら、その手の話がゴロゴロあるはずですがそういうこともなく、落胤等の噂も聞きません。

歌好きで、気の好いタイプだったように思われますね。

 

29才にして突然、国のトップに立つことに

しかし、弟の近衛天皇が崩御すると、立場が大きく変わります。

他に皇位にふさわしい男性がおらず、また後白河天皇の息子が皇太子になっていたため、
「じゃあ皇太子が大きくなるまで皇位にいてくださいよ」
ということで、即位する運びになるのです。

皇位って一応神職も兼ねてるのに、柔軟というかざっくばらんにしか見えないような決め方をしてるときがありますよね。
理屈としておかしくはないのですけれども、「それでいいんかい」とツッコミたくなる例がたまにあるような、ないような。

ともかく優雅に遊び暮らしていた後白河天皇は、29歳にして突如、国のトップに立つことになってしまうのです。えらいこっちゃ。

しかも、即位の翌年には鳥羽天皇(当時は法皇)が崩御したことがきっかけで、保元の乱が勃発。
「大天狗」なんて異名があるくらいなので、いかにも腹黒いイメージで色々画策していたように思われますが、このときはまだ即位したばかりだったんですね。

しかも元々が「中継ぎ」での即位ですから、息子の二条天皇が元服を迎えると、後白河天皇はさっさと譲位して院政を始めてしまいました。そして……。

ここから後白河天皇は「大天狗」への道を着々と歩んでいくことになります。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
後白河天皇/wikipedia

 



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