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【後白河法皇】
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滋子が後の高倉天皇を出産するも
情勢が落ち着いたのを見計らい、後白河上皇は法住寺殿を建設します。
その鎮守として日吉社・熊野社を勧請したり、熊野詣に出かけたり、信心深くなってくるのもこの頃からです。
特に熊野詣については34回も行ったといわれています。
明確な記録はもう少し少ないようですが、いずれにせよ心境の変化があったのは確かでしょう。
このころ中央政治でも、美福門院が崩御し、後白河院にとっては動きやすい状況になっていきます。
逆にいえば、一番の後ろ盾を失った二条天皇と親政派には大打撃。
そして重要になってくるのが平滋子(しげこ)の存在でした。
彼女は、清盛の正室・平時子の妹であり、堂上平氏と呼ばれる公家の出身。
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元々は後白河上皇の姉・上西門院に仕えていたのですが、その美しさや聡明さに惹かれ、後白河上皇に寵愛されるようになったといわれています。
応保元年(1161年)9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王・後の高倉天皇)を出産します。
滋子への寵愛の深さを知っている兄・時忠らは、憲仁親王を立太子し、将来の権力を確保しようとしました。
しかし、それが二条天皇の怒りを買います。
二条天皇からすると憲仁親王は異母弟であり、将来の院政ができなくなってしまうからです。
そのため時忠らは官職を解かれ、後白河院も院政ができなくなってしまう状況に……。
後白河上皇にしてみれば「余計なことしやがって」という気持ちだったでしょう。そもそも、この時代は子供が生まれたからといって無事に育つかどうかもわかりません。
また、閑院流出身の藤原育子が二条天皇に入内したため、彼女らとパイプがない後白河院は更に不利な立場へ追い込まれました。
平清盛も天皇派の姿勢を取ったので、しばらく後白河院は政治から手を引かざるをえない状況となったのです。
平家と清盛の台頭
かくして政治の表舞台から排除されてしまった後白河上皇。
その間は熊野詣に行ったり、蓮華王院(通称・三十三間堂)を築いたり、さらに信仰を深めていきます。
寺社には荘園が寄進されるため、それによって後白河院の経済基盤が強化されることにもなりました。
二条天皇はこうした動きを警戒していたようですが、長寛三年(1165年)2月、残念ながら自身の病気が悪化してしまいます。
そして同年6月、息子の順仁親王(六条天皇)に譲位すると、7月28日には崩御。
二条親政派はそのまま六条天皇派となりますが、問題は「母方の力」でした。
六条天皇は母の身分が低く、二条天皇の中宮・育子が養母として後見しても、いかんせん政権が安定しません。
しかも永万2年(1166年)7月には、摂関家の近衛基実(もとざね)が急死してしまいました。
息子の基通が幼少だったので、弟である松殿基房が新たに摂政と藤氏長者に任じられ、こうした一連の動きが清盛と後白河上皇の追い風になります。
まず清盛は、基実の正室が娘の平盛子だったため、彼女に遺領を相続させました。
さらには憲仁親王の勅別当となり、後白河上皇に近づくのです。
再び政治の場に駆り出された後白河上皇。
清盛を後ろ盾として、憲仁親王の立太子も実現しました。
その礼としてか、後白河院は清盛を内大臣に任官し、そのほか法住寺殿の拡張や軍事の強化に努めます。
例えば、清盛の長男・平重盛には全国的な軍事・警察権を与え、連携をガッチリ強めようと試みました。
重盛も、たびたび後白河上皇の警護を務めていましたし、清盛から家督も譲られていました。
むろん清盛も引退したわけではなく、発言権は維持しています。
両者の関係は安定しつつありました。
出家して法皇に
しかし仁安三年(1168年)2月、清盛が急病で倒れると、政情がぐらつきかけました。
そこで後白河上皇が政治力を発揮。
六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位を強行することで反対勢力を黙らせます。
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程なくして清盛の体調は回復し、福原に隠居しますが、この一件で後白河上皇も身の振り方を考えたのでしょうか。
仁安四年(1169年)、出家して後白河法皇となります。
ここからは滋子と共にあちらこちらへ出かけたり、清盛関係で福原に行ったり、半分ご隠居様のような行動が増えていきます。
ハタから見ていると、そもそもが遊び人気質なので隠居生活の方が性に合ってそうな気もします。
清盛との関係も、順風満帆ではなく、政治的対立をすることもありました……しかし、互いに決定的な決裂を避けようとしていたようです。
高倉天皇に清盛の娘・平徳子が入内したのも、その現れでしょう。
その後しばらく、紆余曲折はあったものの政権が揺らぐほどではなく、安定するかに見えました。
状況が変わってくるのは、安元2年(1176年)のことです。
この年3月に後白河院の50歳を祝う宴が盛大に執り行われ、その3ヶ月後、急病で倒れた滋子が、そのまま亡くなってしまったのです。
院と平家の間を取り持つ存在=滋子が亡くなり、両者の関係は徐々に悪化。
公家の人事や延暦寺への対応などで意見が分かれ、院の近臣たちによる鹿ヶ谷の陰謀発覚によって、後白河法皇は政治力を弱めることになりました。
高倉天皇の後ろ盾には平家がいて、成人後に親政が行える環境だったことも理由かと思われます。
高倉天皇をプッシュしたのは他ならぬ後白河法皇なので、自分で自分の首を絞めた、ともいえますね。
ただし、仲が険悪になるばかりではなく、このころ徳子が懐妊。
治承2年(1178年)11月、無事に第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)が誕生すると、後白河法皇と平家の関係も若干良好になりました。
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、松平健さんの清盛と、西田敏行さんの法皇が、表向きは平静を保っていましたね。
むろん腹の底では違ったのでしょう。
再び両者の間に暗雲が立ち込めていきます。
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