治承三年(1179年)閏7月29日は、平重盛が亡くなった日です。
平清盛の長男で、清盛が亡くなったのはこの2年後ですから、息子に先立たれていたんですね。
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だからこそ権力に固執したと見ることもできなくはないですが、今ではすっかり忘れられている息子のほうは一体どんな人だったのでしょうか。
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「年号は平治、都は平安、我らは平氏!」
重盛は、平家棟梁の長男ながら、一族の中でちょっと微妙な位置にいました。
生母=清盛の最初の正室が身分が低かった上に早く亡くなっていたので、母やその実家の後押しを受けにくくなっていたのです。
それでも本人が優秀かつ思い切りの良い性格だったこともあり、保元の乱では父の制止を振り切って自ら出陣しようとするなど、後継者としてのやる気は充分。
それを買われてか、【保元の乱】の翌年、19歳あたりから官位が上がったり、要職に就いたり、着々と重要な位置に近づいていきます。
【平治の乱】では、源義朝(源頼朝たちのトーチャン)らの追討を命じられました。
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このとき重盛は、
【年号は平治、都は平安、我らは平氏。敵を平らげるのは我ら平氏よ!】
という「誰がうまいことを言えと」的な演説をして味方の士気を大いに上げたといわれています。
軍のトップは戦術家としての能力はもちろん、味方のテンションを上げられるような雄弁さも重要ですよね。まぁ創作の可能性もありますけども。
高倉天皇の台頭により重盛も大きな権力を持つように
その後も父に従って順調に昇進、26歳の時には従三位にまで上がって公卿の仲間入りをしました。
現代の感覚でいうと、高級官僚というところでしょうか。
当時の清盛は、後白河法皇ではなくその子であり政治的ライバルだった二条天皇に味方していたので、父に従っていた重盛も二条天皇の覚えがめでたく、さらに昇進していきます。
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二条天皇が亡くなるときには、幼い息子・六条天皇を支えるために権中納言などの役職も与えられていました。
六条天皇の後ろ盾だった公家が亡くなったことで、結局政治の中枢は後白河法皇になってしまったのですけども。
ここに至って清盛は後白河法皇へ鞍替えし、当時皇太子だったその子・高倉天皇の後押しをし始めます。その流れで重盛の妻が乳母に選ばれたため、重盛も次世代に向けてさらに大きな権力を持つことになりました。
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特に軍事や警察機能に関してはさまざまな宣旨(命令)を受けており、名実共に平家の次期棟梁として認識されていきます。
よりによって高倉天皇の元服式で家来が粗相を……
しかし、その直後には、まだ30歳になるかならないかというところで病気がちになっていたようです。
当時の寿命や、朝廷の儀式を欠席するほどの体調だったことから考えて、このあたりから自らの死を予見し始めたかもしれません。
とはいえ、同時期に父・清盛がやはり病のためという理由で出家・隠居してしまったため、重盛は静養することができません。東国の武士たちと結びつきを強めるなど、仕事はきっちりしていたようです。
着々とフラグが立っていきますね。
それでも清盛の影響を完全に脱することはできませんでした。
何かあれば隠居先の福原に重盛を呼びつけて報告させたり、重盛よりも清盛の判断が優先されたり、依然として「平家のトップは清盛」という状態だったのです。院政や江戸時代の大御所政治と似たようなものですね。
そんな中で、とある行事の際、重盛の家来が暴力事件を起こします。
その行事というのが、高倉天皇の元服式だったのですから、さぁ大変。
上記の通り、高倉天皇にとって重盛は義父にも等しい存在ですから、その家来が元服を邪魔したような形です。えらいこっちゃ。
本人には直接責任がないとはいえ、重盛は引っ込まざるを得なくなり、代わりに異母弟・平宗盛が台頭してくることになります。
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まぁ、一気に官位や立場を抜かされてしまったわけではないのですが。
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