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【平重盛】
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死因は胃潰瘍とも脚気とも
その後、反平家の陰謀や京都の大火災、清盛の強引ぶりなどが重なり、平重盛は形ばかりの当主になってしまったばかりか、体調もどんどん悪化していってしまいました。
大火災の時には重盛自身の屋敷も燃えてしまっていますし、まさに踏んだり蹴ったり、カワイソス(´・ω・`)
41歳になっていよいよ死期を悟った重盛は、公の場に姿を現すこともやめ、剃髪して穏やかな最期を迎える準備をし始めました。
そりゃあこんな状況になってたら、この世での望みをなくして来世に期待したくもなろうというもの。
亡くなる一月前には後白河法皇が自らお見舞いに来ているので、重盛への印象は悪くなかったのかもしれませんね。
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そして治承三年(1179年)閏7月29日、全ての因果から解き放たれるかのように重盛は亡くなったのでした。
享年42。
死因は胃潰瘍とも脚気ともいわれていて定かではないのですが、上記の経緯からするとストレスで胃をやられた可能性も高そうですね。
邸宅跡が庭園として残っているだと!?
現在、重盛の屋敷や所持品などはあまり残っていません。
一応、彼の邸宅跡と言われている庭園が京都にあり、今はとある病院(東山武田病院)の庭園となっています。
平安時代の庭園が残っているとすればそれだけでもすごい話なのですが、京都自体が世界遺産の塊みたいなものですから、あまり知名度は高くないようです。
その庭園だったかどうかははっきりしないのですが、重盛は屋敷に48もの灯篭を置いていたことから「灯篭大臣」とも呼ばれていたとか。
もし残っていたら、さぞ壮観だったでしょうね。
重盛のことも今より大いに知られていたかもしれません。
同時代や親族により強烈な人がいると仕方のないことではありますが、何ともかわいそうな人だなぁ……。
公卿や僧侶から「重盛殿は武勇に優れながらも真面目で優しく、心配りもできる素晴らしい方だ」と書き残されていることが、せめてもの慰めになっていると良いのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
平重盛/wikipedia